テリー・オニール追悼
相手を好きになるのが良い写真を撮る秘訣

テリー・オニールの死を惜しむ声が世界中から上がっている。

2015年来日時の写真展会場でのテリー・オニール氏

数々の仕事を一緒に行ったミュージシャンのエルトン・ジョン。彼はいま引退ワールド・ツアーを行っている。テリー・オニールが亡くなった2019年11月16日はニューヨーク・ユニオンデールのナッソー・コロシアムで公演を行っていた。ライブの途中で、テリー・オニールの死に触れて、有名な別れの歌「Don’t Let The Sun Go Down On Me(僕の瞳に小さな太陽)」を捧げている。

テリー・オニール作品の人気はキャリア後半期になって大きく盛り上がった。ここ数年は、世界中のギャラリーで展覧会が開催されるとともに、写真集も相次いで刊行。大手のアート写真オークションで、作品が頻繁に取引されるようになっていた。ポートレート写真には、ブロマイド的な写真が数多く存在している。この分野の写真はアート性が低い、という先入観を持っている人は今でも多い。なぜアート界でテリー・オニールのポートレート写真の人気が高かったのか考えてみたい。

ファッション/ポートレート写真のアート性は撮影を依頼する雑誌や新聞などと写真家との関係性による。これはどれだけ自由裁量が写真家に与えられるか、また写真家が獲得するかという撮影時の環境による。有名写真家になるほど、撮影スタイルが確立している。依頼主は完成する写真が想像できるので写真家に与えられる自由度が高くなる。テリー・オニールの活躍した60~70年代のファッション、ポートレートは比較的に自由に仕事ができたそうだ。花形のグラフ雑誌のフォトエッセーでは編集者の力が強く写真家の自由度はあまりなかった。それに比べて、まだマイナーだったロック系ポートレートでのテリー・オニールの自由度は相当に高かった。彼の名作が生まれた背景にはこのような幸運な撮影環境があったのだ。
また与えられた自由裁量の中で、写真家がどのように作家性を発揮するかも重要になる。テリー・オニールは世界的なセレブリティ―たちの自然な表情を撮影することで定評があった。その一種ドキュメンタリー性を兼ね備えた作風が広くアート界でも認識されているのだ。彼は自然な表情を撮影するためには、被写体との関係性構築と環境作りが重要だと語っていた。それが上手くいけば、あとは瞬間を切りとるだけだという。彼が最も尊敬していたのはマグナム・フォト所属のアメリカ人写真家ユージン・スミス。スミスは撮影環境作りを重視し、被写体が写真家やカメラを意識しなくなるまでシャッターを押さなかったという。テリー・オニールも、同じアプローチを実践。カメラも同じくコンパクトなライカを用いている。彼は時に被写体と長期間にわたり行動を共にし、また姿を隠したりしてシャッターチャンスを待ったという。彼は写真家として成功する秘訣は、あまり目立たないことだといっている。最初、その意味は良くわからなかった。その後に本人と話したことで、被写体にとって写真家が自然の存在になることで初めて良い写真が撮影可能になるという意味だと分かった。また被写体である相手を好きになることも強調している。写真にはすべてが出てしまう、良い写真と悪い写真の違いはすべてそこにある、とも語っている。
彼の写真作品は、セレブリティーが被写体となったドキュメンタリーで、被写体とのコラボから生み出された自己表現であり、各時代を代表する各界の顔が撮影された、当時の気分や雰囲気が反映されたアート系ファッション・ポートレート写真であることがわかる。
大手アート・オークション会社クリスティーズのスペシャリスト・ジュード・ハル(Jude Hull)氏は、彼の写真を「20世紀から時代が経過したいま、テリー・オニールの写真は過去の(時代性が反映された)重要なドキュメントと考えられるようになった」と評価している。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は TON-Frank-Sinatora-on-the-Boardwalk-Miami-1968.jpg です
Frank Sinatora on the Boardwalk, Miami, 1968/ Iconic Images

80年代以降、撮影依頼者から次第に指示や制限が加えられるようになっていく。ファッションやポートレートを取り扱うメディアがビック・ビジネスとなった。彼らが出版後の様々な事態を想定して自己規制を行うようになったのだ。健康被害を思い起こすタバコ、宗教的、人種差別、性差別などに事前に配慮したヴィジュアルが求められるようになる。その後は、自由な表現を追求したい写真家と、編集者やクライエントとの戦いが繰り返されることになる。多くの写真家は、この分野の自由な表現の可能性に見切りを捨て、業界を去ったりファインアートを目指すようになる。21世紀になりデジタル化が進行したことで、写真家に与えられる自由裁量はさらに狭まっているのは多くの人が知るところだ。最近では、写真家はクライエントやデザイナーの指示でカメラを操作するオペレーターのような存在になっている。このような不自由な状況では、かつてのようにポートレート写真から時代に残るようなアート作品が生まれ難くなってしまった。テリー・オニールがキャリア後期に撮影をしなくなった理由は、年齢のせいだけではないのだ。最後の本人が納得のいった仕事はネルソン・マンデラの撮影だったという。

テリー・オニールが異例ともいえる長期間にわたり業界最前線で活躍してきた点にも注目したい。2015年に東京で開催された写真展では、キュレーションを担当したロビン・モーガン氏は写真展タイトルを 「Terry O’Neill : 50 Years in the Frontline of Fame」(「テリー・オニール:華麗なる50年の軌跡」と意訳した)としている。文字通り、現役として業界の最前線で約50年以上にわたり活躍してきたのだ。多くの写真家は専門分野があり、活躍するのもピーク時期はだいたい10年くらいではないだろうか。特にファッション写真の場合、創造性はいくら優れた写真家でも長続きしないことで知られている。ハ―パース・バザー誌のアレクセイ・ブロドビッチは、寿命は7年くらいだと語っている。

しかし、ポートレート写真では様々な有名人を被写体として撮影することから、写真家は刺激を受けつづけ、創造性への情熱も継続ができる場合が多い。現在ブリッツで展示中のノーマン・パーキンソンも、キャリア途中でファッションからポートレートへ軸足を移して活躍し続けている。
テリー・オニールのポートレートはミュージシャンから始まる。1963年のビートルズの撮影以来、エイミー・ワインハウスまで、常に音楽業界の最前線のミュージシャンを撮影してきた。彼は、幸運にもビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズ、デヴィット・ボウイのヴィジュアル作りに初期段階から関わり、彼らが世界的なロック・スターへと成長していくにしたがって、オニールの写真家の名声も上がっていくのだ。しかし、音楽専門写真家は数多くいる。彼が特別にミュージシャンと親しい関係性を構築できたのは、自身がジャズドラマーでもあり、被写体から同じミュージシャンの仲間だと尊敬されていたからだと思われる。写真家というより、被写体のミュージシャンと同じ目線での撮影が、彼の魅力的な作品の背景にあるのだ。

Kate Moss English fashion model Kate Moss in a black body stocking, March 1993/ Iconic Images

そして、撮影対象の分野が多岐にわたることも大きな特徴だろう。音楽界、映画界はもちろん、なんとサッチャー首相などの英国政界の人々や、エリザベス女王など英国王室も撮影。その範囲は、スーパーモデル、スポーツ/文化界、自動車レース界まで及ぶのだ。だいたい写真家には専門分野がある。彼のような人は極めて稀なのだ。

Hepburn With Dove A contemplative Audrey Hepburn with a dove perched on her shoulder, 1966/ Iconic Images

テリー・オニールの代表作品は既に完売している。これからは、オークションでの取引が中心になると思われる。ただし、エディションが残っている作品については、その範囲内で限定エステート・プリントとして新たに販売されることが決定した。また代表作でない生前のサイン入り作品は、かなり高価になったがロンドンのギャラリーに在庫がある場合がある。興味ある人はぜひブリッツに問い合わせてほしい。

最後に冒頭に紹介したエルトン・ジョンの別れの言葉を紹介したい。「彼は本当に偉大な写真家だった。テリー、あなたの旅がどこに向かっていようとも素晴らしいものでありますように。私へのいままでのすべての仕事に感謝します。」

テリー・オニールが安らかな眠りにつかれるように、心よりお祈り申し上げたい。