2018年秋・英国/欧州アート写真オークション・レビュー
景気先行き不安が落札結果に反映

いままで、ユーロ圏経済は緩やかな回復傾向が続いてきた。昨年は2008年の経済危機後のもっとも高い2.4%成長を達成した。しかしマスコミ報道によると、ここにきて主要な輸出相手国である中国経済の減速、イタリアの財政リスク、米国との貿易摩擦、英国のEU離脱などで、先行きは不透明感が漂ってきたようだ。経済指標も景況感指数などで弱めの数字が出始めてきた。欧州委員会は2019年のユーロ圏の実質成長率を1.9%に下方修正している。
さて先週にかけて、ロンドンとパリでアート写真オークションの欧州ラウンドが行われた。昨年は、クリスティーズ・パリの“Stripped Bare: Photographs from the Collection of Thomas Koerfer”で、マン・レイの“Noire et Blanche, 1926”が268.8万ユーロ(3.57憶円)の高額で落札されたり、全般的に好調な結果だった結果だった。しかし今年は経済の先行き不安が多少なりとも反映されたやや弱含みの結果となった。

11月1日にフィリップスはロンドンで、8日から9日にかけてササビーズとクリスティーズがフォト・フェアーに合わせてパリで、合計5つのアート写真セールを開催した。

PHILLIPS London “Photographs”

フィリップス・ロンドンの出品数は108点、落札率は約73.1%、総売り上げは約127万ポンド(約1.9億円)だった。ちなみに昨年は出品数97点、落札率は77.32%、総売り上げは約154万ポンド(約2.32億円)。売り上げは約17.5%減、落札率も若干低下した。売り上げ減少は、注目されていた10万ポンド以上の落札予想価格が付いていたシャルル・ネグレ(Charles Negre)などを含む19世紀フランス写真からなるハイマン・コレクションの12点が出品取りやめとなったのが影響したと思われる。

パリの大手2社の4つのセールは、出品数218点、落札率約56.88%、総売り上げ約348万ユーロ(約4.53億円)だった。昨年は、出品数は389点、落札率は約61.18%、総売り上げは約758万ユーロ(約10.23億円)。パリの結果は昨年と比較すると、落札率が悪化、総売り上げも、出品数と高額落札の減少が影響して約54%減だった。

高額落札が期待されていたササビーズの“Photographs”に出品されたリチャード・アヴェドンの代表作“Dovima with Elephants, Evening Dress by Dior, Cirque D’hiver, Paris, 1955”。124.5 x 100cmの大判作品で、落札予想価格は60~90万ユーロ(約7620~1.14億円)だったが不落札だった。
またササビーズ“Modernism: Photographs from a Distinguished Private Collection”に出品されたポール・ストランドの“FERN, EARLY MORNING DEW, GEORGETOWN, MAINE, 1927”も、落札予想価格は20~30万ユーロ(約2600~3900万円)だったがこちらも不落札。2016年に低迷した市場は、2017年は秋にかけて回復傾向を示していた。しかし、ここにきて再び息切れしてきたようだ。

高額落札は、クリスティーズで開催された杉本博司の28点単独オークション“Hiroshi Sugimoto Photographs: The Fossilization of Time”に出品された“Sea of Japan, Rebun Island, 1996” 。

Christies Paris “Hiroshi Sugimoto Photographs: The Fossilization of Time”

極めて人気の高い海景シリーズからの、119.2  x 148.5 cm、エディション5の作品。落札予想価格は20~30万ユーロ(約2600~3900万円)だったが、30.75万ユーロ(約3997万円)で落札。同じシリーズの、“Bass Strait, Table Cape, 1997”も、27.15万ユーロ(約3529万円)で落札。しかし単独オークション全体の落札率は約53.5%、総売り上げは約120万ユーロ(約1.57億円)と低調だった。

先日にニューヨークのスワン・ギャラリーに出品されたコンスタンティン・ブランクーシ(1876- 1957)の“Vu d’atelier, c1928”。落札予想価格を大きく上回る12.5万ドル(約1400万円)で落札され話題になった。今回ササビーズ・パリの“Photographies”にもブランクーシが自身の彫刻をスタジオを撮影した“VUE D’ATELIER, C. 1923”が出品された。落札予想価格は3万~5万ユーロ(約390~650万円)だったが、前記スワンとほぼ同じ10.625万ユーロ(約1381万円)で落札されている。

これで年内の大手によるアート写真オークションは終了。これから年末にかけては、中堅のヴェストリヒト(WestLicht)・ウィーンの”18th Photo Auction”が11月23日、レンペルツ(Lempertz)・ケルンの“Photography”が11月30日、ドイル(Doyle)・ニューヨークの“Photographs”が12月13日が行われる予定。

(1ユーロ/130円、1ポンド/150円))

 

アート系ファッション写真のフォトブック・ガイド(連載) (7)
“Appearances : Fashion Photography Since 1945”の紹介

前回に続きロンドンのケンジントンにあるヴィクトリア&アルバート美術館で1991年に開催された、1945年以降のファッション写真に焦点を合わせた展覧会カタログを紹介する。

戦後のファッション写真のアート性を定義したのはロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館なのだ。歴史学者のエマニュエル・トッドは“問題は英国ではない、EUなのだ”(文春文庫)で、絶対核家族のアングロサクソン文化の不安定性、柔軟性を指摘し、イギリスを断絶文化と呼んでいる。イギリス文化を遡ると突然の変化にぶつかるとし、とても振幅の激しい文化だからこそ、ビートルズやデヴィッド・ボウイがでてくると書いている。いままで無視されていたファッション写真をアートの文脈で評価する柔軟性を英国の美術館は持っていたのだと思う。
そういえば、ロックスターのデヴィッド・ボウイのアート性に注目して、展覧会“David Bowie is”を企画したのもヴィクトリア&アルバート美術館なのだ。

本展は“SHOTS OF STYLE”も手掛けたマーティン・ハリソンがキュレーションを担当。前回の展示でファッション写真のアート性に確信を持ち、さらに調査を進めて自らの価値基準を展開していったと思われる。
カタログとなる本書は、ファッション写真を扱うディーラーにとっての教科書。私も何度も読み返し、多大な影響を受けている。ちなみに、1991年に開催された実際の展覧会をロンドンで見てギャラリーの方向性を決めた。

ハリソンは、本書巻頭でスーザン・ソンダクの”偉大なファッション写真は、ファッションを撮影した写真以上のものだ”という発言を引用。洋服の情報を正確に伝えるファッション写真が存在している一方で、最先端の写真家による洋服販売目的にあまりとらわれないファッション写真が存在するとしている。

彼はいままで美術館やギャラリーで紹介されることがなかったリリアン・バスマン、ギイ・ブルダン、ソ-ル・ライターなどのファッション写真家を初めて本格的に取り上げている。本書がきかっけで、90年代後半にファッション写真家の再評価が行われ、ギャラリーでの写真展開催や写真集刊行につながっている。
またハリソンは、リチャード・アヴェドン、アーヴィング・ペン、ヘルムート・ニュートンなどのようにファッション分野中心に活躍していた人以外の、ドキュメント系のウォーカー・エバンス、ブルース・ダビットソン、ロバート・フランク、ルイス・ファー、映画監督として知られるジェリー・シャッツバーグ、現代アート系のナン・ゴールディン、シンディー・シャーマン・ロバート・メイプルソープらのファッション写真にも注目している。

表紙に採用された動きのある美しいファッション写真は、ニューヨークのストリート写真で知られるルイス・ファーの“French Vogue、March 1973”(fashion:Gres)。(上記画像を参照)

アレクセイ・ブロドビッチの“Ballet”の画像

本書は、過小評価されていたハーパース・バザー誌アート・ディレクターだったアレクセイ・ブロドビッチも積極的に取り上げている。彼はファッション写真、に動きのフィーリングの取入れを求め、ドキュメンタリー写真の方法の採用を写真家にアドバイスしている。それは、動きのブレ、カジュアルなフレーミング、力強いクローズアップで、ヴィジュアルの力強さをページ内で最大限に生かすことだった。ブロドビッチはその信条を、自らの写真集“Ballet”(1945年刊)で提示し、それはハーマン・ランドショフ、そしてリチャード・アヴェドンに受け継がれていく。彼は1941年から約20年間に渡り、いわゆる“デザイン・ラボラトリー”で、グラフィック・ジャーナリズム、広告、デザイン、ファッションの指導を行っている。アーヴィング・ペンは、彼の戦後ファッション写真への長きにわたる影響について指摘。“すべての写真家は、その人が知っていようがいまいが、すべてがブロドビッチの生徒だ”と語っている。

本書では、1980年代に登場したブルース・ウェバーも高く評価している。彼は新鮮味がないプロのモデルを採用しないことで知られるが、自分のテイストを追求した写真をファッションでも追及し、ファッション写真をブルース・ウェバー写真にしたとハリソンは指摘している。ウェバーは自身のファッション写真観を、“人がライフスタイルを表現し、とてもパーソナルな着こなしをしているとき、それらを撮影した写真は私たちの人生に何かをもたらす”と語っている。ウェバーは、ロバート・メイプルソープとともに、男性がモデルのファッション写真を作り上げた点も重要だろう。
1980年には、ヴォーグ英国版、イタリア版がブルース・ウェバー、パオロ・ロベルシ、ピーター・リンドバークなどに多くの自由裁量を与えた点にも注目している。この時代にファッション写真が洋服の情報を提供するメディアから大きく変化していくのだ。いわゆるアート系のファッション写真は、洋服を撮影した写真だけではなく、時代の気分や雰囲気が反映された写真であることを多くのヴィジュアルを通して提示している。それらは、洋服の情報をうまく美しく伝えることを意識するのではなく、ファッションが存在する時代に対する明確な認識があり、鋭い嗅覚でその時代の持つフィーリングを写真で見る側に伝えようとしている写真家による作品を意味するのだ。

ハリソンは、本書を通して戦後ファッション写真が洋服の情報を提供するメディアから写真家の自己表現の一部のメディアに進化していく過程を紹介している。最後に、彼はそれを“ファッション写真の終わり”と表現している。その象徴として最終ヴィジュアルに、リチャード・アヴェドンが1989年に雑誌エゴイストのために女優イザベル・アジャーニを起用して撮影した作品を紹介している。(上記画像を参照)何かにとりつかれたかのようにやや不気味な表情のアジャーニを墓地で撮影したアレ・ボケ写真を、アヴェドンは“ファッション写真の終わり”と関わると説明しているという。彼女は、撮影用に用意されたハイ・ファッションの洋服ではなく、アヴェドンが所有する古いボロボロのコートを着て、自己が無視され虚構の中に生きるセレブリティーの苦悩を表現。文字通りこの写真こそはファッションの墓場で笑っているモデルということなのだろう。

ハリソンは、90年代に入り洋服の情報を提供するファッション写真は残るが、今やそれを超えた新しい種類の、人のスタイルや意思表示を語るファッション写真が存在するとしてまとめている。これは、現代アート表現の一部として、価値観が多様化した現代社会における時代性が反映されたシーンを切り取った写真表現として存在すると解釈したい。それ以降のアート系ファッション写真の論理的な背景は本書により明確に示されたのだと思う。
また彼の考え方はアート系のポートレート写真にも同様に適応されると考えてよいだろう。

“Appearances : Fashion Photography Since 1945”
(Martin Harrison著、1991年刊), 310 x 290 mm, 312 p

本書には、英国版(Jonathan Cape)、米国版(Rizzoli)、フランス版、またハード版、ペーパー版がある。ハード版は重くて分厚いので状態が悪いものが多い。古書市場の流通量は豊富。相場はハード版の普通状態で5000円~、良い状態だと1万円~。海外から取り寄せる場合は重い本なので送料が高くなるので要注意。
ファッション写真に興味ある人には、まず本書を買って自分好みの写真家を探すようにアドバイスをしている。

以下が収録写真家リスト。
Anthony Armstrong-Jones
Diane Arbus
Richard Avedon
David Bailey
Gian Paolo Barbieri
Lillian Bassman
Cecil Beaton
Guy Bourdin
Bill Brandt
Alexey Brodovitch
Erwin Blumenfeld
Alfa Castaldi
Cliford   Coffin
Ted Croner
Stephen Colhoun
Baron Adlf de Meyer
Louise Dahl-Wolfe
Bruce Davidson
Terrence Donovan
Richard Dormer
Arthur Elgort
Walker Evans
George Hoyningen-Huene
Robert Frank
Louis Faurer
Nan Goldin
Jean-Louis Gregoire
Leslie Gill
Ernst Haas
Bill Helburn
Hiro
Paul Himmel
Frank Horvat
Horst P.Horst
Constantin Joffe
Art Kane
William Klein
Genevieve Naylor
Norman Parkinson
Irving Penn
Harman Landshoff
Saul Leiter
Gerge Platt Lynes
Richard Litwin
Peter Lindbergh
Frances MacLaughlin-Gill
Robert Mapplethorpe
Kurt Markus
James Moore
Jean Moral
Sarah Moon
David Montgomery
Duane Michals
Martin Munkacsi
Helmut Newton
Gosta Peterson
Harri Peccinotti
John Rawlings
Paolo Roversi
Bob Richardson
Francesco Scavullo
Jerry Schatzberg
Jeanloup Sieff
Bill Silano
Melvin Sokolsky
Edward Steichen
Bert Stern
Cindy Sherman
Ronald Traeger
Deborah Turbeville
Chris-von Wangenheim
Bruce Weber
以上

2018年秋の欧米アート写真市場
NY中堅業者のオークション・レビュー

10月のニューヨークでは、大手3社のほかに中堅のBonhams(ボナムス)、Heritage Auctions(ヘリテージ)、Swann auction galleries(スワン)のオークションが開催された。

Swann auction galleries 2018 Cataloge

こちらは、高額作品の出品は少なく、ほとんどが大手で取り扱わない低価格帯や知名度の低い写真家の作品が中心のオークションとなる。大手は出品作品を価格帯や写真史などを考慮して綿密な編集作業を行い、カタログを制作する。一方で中堅はあまりこだわらないのが特徴。それゆえ出品作品数が多くなる傾向がある。

今秋の3社の出品数合計は1000点で落札率は約65.5%、総売り上げ約297万ドル(約3.32億円)。昨年の同時期は、落札率65.08%、総売り上げ290万ドル、今年もほぼ変わらない結果だった。

既述のように大手3社の1万ドル以下の低価格帯の落札率は約59%だった。ここ数年中堅業者によるオークションの落札率は低位安定しているが、今秋は大手が扱う低価格帯作品の落札率も低調だったのはやや気になる。市場参加者の中心がミレニアム世代に移りかわり、単に好きな作品を買うのではなく、ヴァリューも求めるという、彼らのテイストが表れてきた可能性があるだろう。いわゆる、最近よく言われるアート写真作品の人気、不人気の2極化が徐々に進行しているということだ。

高額落札が期待されたのは、スワン・ギャラリーに出品されたエドワード・カーティスの“The North American Indian, Volumes 1-20 and Folios 1-20,1907-1930”。貴重な20巻完全セットで画像はカタログ・カヴァーにも収録作が採用されている。落札予想価格は100~150万ドルだったが不落札だった。

今秋の中堅業者オークションの最高額は、同じくスワン・ギャラリーに出品されたコンスタンティン・ブランクーシ(1876- 1957)の作品“Vu d’atelier, c1928”(掲載画像参照)。

Swann Auction Galleries, Artists & Amateurs: Photographs & Photobooks, lot 71, Constantin Brancusi “Vu d’atelier, c1928”

彼は20世紀を代表する彫刻家だが、ファインアート写真家でもあった。本作は彼の代表的な抽象彫刻4点をスタジオで撮影したもの。落札予想価格は3~4.5万ドルだったが資料的価値が高く評価され12.5万ドル(約1400万円)で落札された。
一方で、ボナムスで高額落札が期待されたリチャード・アヴェドンの有名作“Charlie Chaplin, Leaving America, September 13, 1952, 1952”。落札予想価格は8~12万ドルだったが不落札だった。

引き続く欧州で開催される主なアート写真オークションの日程は以下のようになっている。

11月1日、フィリップス・ロンドン“Photographs”
11月8日、クリスティーズ・パリ“Photographies”
11月8日、クリスティーズ・パリ“Hiroshi Sugimoto Photographs: The Fossilization of Time”
11月9日、ササビーズ・パリ“Modernism: Photographs from a Distinguished Private Collection”
11月9日、ササビーズ・パリ“Photographies”

ササビースの“Photographs”オークションで注目されているのは、リチャード・アヴェドンの代表作“Dovima with Elephants, Evening Dress by Dior, Cirque D’hiver, Paris, 1955”。本作は1962年のプリント作品。リタッチされる以前のオリジナルのネガから制作されている。スミソニアン美術館で開催されたアヴェドン最初の美術館展用に制作された2点のうち1点。もう1点はスミソニアン美術館に収蔵とのこと。124.5X100cmの大判作品の落札予想価格は60~90万ユーロ(約7620~1.14億円)。2010年11月のクリスティーズ・パリでは、216.8X166.7cmサイズの同作が84.1万ユーロ(@112円/約9419万円)で落札された。今回、市場がどのような評価を下すかを関係者は注目している。

クリスティーズは杉本博司の28点の単独オークション“The Fossilization of Time”を開催。海景シリーズからの“Sea of Japan, Rebun Island, 1996”と“Bass Strait, Table Cape, 1997”はともに119.2 x 148.5 cmの大作。落札予想価格は2作品ともに20~30万ユーロ(約2540~3810万円)。“Bass Strait, Table Cape, 1997”は2005年秋のフィリップス・ニューヨークで24万ドルで落札された作品。

フィリップス・ロンドンでは19世紀の初期の写真家シャルル・ネグレ(Charles Negre)の1850年ごろに制作された“Model reclining in the artist’s studio”が出品される。極めて希少性が高いプリントで落札予想価格は、10~15万ポンド(1480~2220万円)。

(1ユーロ/127円、1ポンド/148円))

2018年秋のニューヨーク・アート写真シーン
最新オークション・レビュー

米国経済は、景気拡大サイクルの後半に関わらずトランプ政権による景気刺激策によって堅調を維持してきた。しかし、10月に入ると貿易戦争の懸念や中国株の下落で世界景気の先行きに不透明感が広がってきた。また長期金利上昇と財政赤字拡大により、一部投資家には米国の景気拡大シナリオの終焉が意識され始めたという。
秋のニューヨーク定例アート写真オークションの結果も、一部に顕在化し始めたそのような将来への不透明さが反映された結果だった。

今秋のクリスティーズ、ササビーズ、フィリップスの大手3業者の出品数は872点だった。(今春はトータルで772点、昨年秋は874点)合計6つのオークションの平均落札率は62.3%。今春の73.5%、2017年秋の69.9%、2017年春の73.8%から大きく低下した。業界では不落札率が35%を超えると市況はよくないと言われている。しかし総売り上げは約1648万ドル(約18.1億円)と、春の約1535.5万ドルから約7%増加。ただし、2017年秋の約1912万ドルよりは約14%減少している。
内訳をみると、1万ドル以下の低価格帯の落札率だけが、春の79%から59%に大きく減少している。一方で中高価格帯の落札率にはあまり変化がない。出品数が春より増加した中、低価格帯が大きく苦戦したのが今秋の特徴だったといえるだろう。

過去10回の売り上げ平均額と比較すると、リーマンショック後の低迷から2013年春~2014年春にかけて一時回復するものの、再び2016年まで低迷が続いた。2017年春、秋はやっと回復傾向を見せてきたが、今春に再び下回ってしまった。過去10年の年間総売り上げ額平均と比較してみると、2018年は平均値に近い水準に収斂してきた。また、今秋の実績は過去10シーズン(過去5年)の売り上げ平均ともほとんど同じレベルとなった。極めてニュートラルな売り上げ規模になってきたと判断できるだろう。

今シーズンの高額落札を見ておこう。
1位はクリスティーズ“Photographs”のダイアン・アーバスによる双子の女の子を撮影した代表作“Identical Twins, Roselle, NJ, 1966/1966-1969”。

Christie’s NY “Photographs Lot242 ”Diane Arbus “Identical Twins, Roselle, NJ, 1966/1966-1969”

本作は16X20″の印画紙にプリントされた作家生前制作の貴重な大判作品。このサイズの現存作はほとんどが主要美術館の収蔵品になっている。落札予想価格50万~70万ドルのところ約73.25万ドル(約8204万円)で落札。

2位はササビーズ“Photographs”の、アレクサンドル・ロトチェンコによる有名作“GIRL WITH A LEICA (DEVUSHKA S LEIKOI)”。予想落札価格30~50万ドル(3300~5500万円)が、51.9万ドル(約5812万円)で落札されている。

Sotheby’s NY Photographs Lot131 Aleksandr Rodchenko “Girl with a Leica, 1932-1934”

3位もササビーズ“Photographs”の、ラースロー・モホリ=ナジの、“Untitled (Photogram with circular shapes and diagonal line), c1923-1925”。予想落札価格12~18万ドルが、44.7万ドル(約5006万円)で落札されている。

今回注目されていたのが、クリスティーズの“An American Journey: The Diann G. and Thomas A. Mann Collection of Photographic Masterworks”だ。第1次大戦前から第2次大戦後の作品までの、写真史上の代表作を幅広く含む教科書的な184点の単独コレクションからのセールだ。残念ながら結果は、落札率51.9%と極めて不調に終わった。最高額は、アルフレッド・スティーグリッツの代表作“The Terminal, New York, 1893/c1910”で、22.5万ドル(約2520万円)で落札。しかし同じく有名作だった“The Steerage, 1907”は不落札だった。特にモダニズム系など20世紀写真の不調が目立った。
一方で比率は少なかったファッション系は好調で、ノーマン・パーキンソン、ホルスト、アーヴィング・ペン、ロバート・メイプルソープ、ハーブ・リッツ、サラ・ムーンなどは確実に落札されていた。その他では、エドワード・ウェストン、ルース・ベルナード、ロバート・メイプルソープなどのヌード系も人気があった。

最近は、市場に相場の先高観がなくなってきている。景気サイクル後半に差し掛かる経済状況とともに、20世紀の第1世代のコレクターが高齢になり、処分売りによる供給が増える一方で、次世代を担うアート写真コレクターが育っていないことが複合的に影響していると考えられる。
いくら貴重作でもプリント流通量が多い作品の場合、買い手は慎重で、落札予想価格が高いと不落札になる場合が多い。
写真史で有名な写真家で来歴が良い作品でも、有名でない絵柄の人気が低迷している。いわゆる人気、不人気作品の2極化が進んでいるという意味だ。

今回のオークション結果、特に“An American Journey”は、まさにこのような市場傾向と合致すると思われる。
また欧米のディーラーは、資金を調達して在庫を仕入れる場合がある。最近の金利上昇によるコスト上昇も落札率低下の一因だと思われる。

さてクリスティーズ、ササビーズ、フィリップスは、10月下旬から11月にかけて、ロンドンとパリで複数のアート写真のオ―クションを予定している。ニューヨークでのオークション後に、世界の経済状況はさらに不透明感が増している。市場の関心は、今春は好調だった英国、欧州市場の動向に移っている。

(1ドル/112円で換算)

写真展レビュー
“愛について アジアン・コンテンポラリー”
@東京都写真美術館

本展はアジアン・コンテンポラリーとして高い評価をえているという、アジア出身の女性アーティストのグループ展。企画立案は、4月まで東京都写真美術館でキュレーターを務め、社会における女性の地位やジェンダーのあり方にこだわった展覧会を行ってきた笠原美智子氏による。

キム・インスク(在日コリアン3世)の、“ハイエソ:はざまから”は、在日家族史を収めた映像と日常のポートレートによる作品。
キム・オクソン(韓国)の“ハッピー・トゥゲザー”、“ノー・ディレクション・ホーム”は、グローバル化、多文化がテーマ。国際結婚している女性や国外居住者、外来植物を撮影。
ホウ・ルル・シュウズ(台湾)は、“A Trilogy on Kaohsiung Military Dependents’ Villages”で、戦後の新しい移民集落が姿を消す前の最後の姿を”二重視線”の手法で作品化している。
チェン・ズ(中国)は、自傷行為をテーマに作品を制作、内省的なドキュメンタリーの“我慢できる”と、被写体と交わした各種コミュニケーションを写真作品化した“蜜蜂”を展示。
ジェラルディン・カン(シンガポール)は、自らの家族や親戚にまつわる写真や記憶をもとに、祖母、家族兄弟らと架空のファミリー・ポートレートを撮影した“ありのまま”を展示。
須藤絢乃(日本)は、性別にとらわれない理想の姿に変装した自分自身や友人を撮影した“メタモルフォーゼ”、実在する行方不明の女の子に扮して撮影したセルフポートレート“幻影”などを展示している。

複数文化の中での様々な葛藤と調和、生きるための自傷行為、パーソナルなセルフポートレート、作られた家族写真、忘れられつつある歴史の提示などがテーマの展示は、カタログの“ごあいさつ”で書かれているように、家族、セクシュアルティー、ジェンダーの在り方など、女性が関心を持ちやすいテーマが取り上げられている。
それぞれの作品の制作年を見てみると、かなりばらつきがある。古い作品は、キム・オクソンの2002年制作の作品から、須藤絢乃の2018年制作の作品までが含まれる。“アジアン・コンテンポラリー・フォトグラフィー”ということだが、その意味は現在中心ではないようだ。21世紀最初の18年間における、時代ごとの価値観に影響を受け翻弄されたアジアの女性作家たちの多種多様な作品を展示する意味合いが強いと思う。この期間に世界は、グローバリゼーションと新自由主義の考えが一世を風靡した後に、リーマン危機などを経て一般市民層の経済格差が拡大した。結果的に米国のトランプ政権誕生や英国のEU脱退などに見られるように旧来なナショナルな方向への大きな揺れ戻しが起こっている。それぞれの展示作は、アーティストの出身国独自の問題点や、パーソナルな関心をテーマに、時代ごとの社会の価値観に影響を受けながら制作されているという印象を持った。

コンテンポラリーの日本をテーマにした展覧会のキュレーションは極めて難しいだろう。20世紀後半の一時期のように、多くの人が同じような価値基準や将来の夢を持つような状況ではないからだ。どうしても、狭い範囲内の局地的な視点を掘り下げて提示するものになる。それは、現代アートの世界での問題点やテーマの提示と何ら変わらなくなる。女性やフェミニストやジェンダーのテーマ自体もかなり多様化している。アーティストは、表層的で抽象的な問題にとらわれると自己満足してしまい、思考停止状態に陥ることが多い。21世紀のアーティストは、大きなテーマの中でそれぞれがより内面深く思索を行い、問題点を掘り起こし個別に興味あるテーマを提示しなければならない状況にある。
今回の展示を見て感じたのは、アジアや女性作家を切り口にしても、このような基本的な状況は変わらないことだ。その中で何らかの傾向を提示するのが極めて難しくなってきたのだと感じた。この辺のところはキュレーターの笠原氏の理解も同じで、カタログ巻頭で“このグローバル化し価値観が多様化した情報社会において、国や地域でアーティストを区切り、一つの傾向を示すのは不可能になっているのではないか”と記している。
しかし、美術館の展覧会では何らかの方向性を提示しないわけにはいかないだろう。海外で開催されている若手のグループ展でも、例えばICP(国際写真センターニューヨーク)の“A Different Kind of Order”のように抽象的なキーワードを採用したり、撮影者の世代でグルーピングするものが多くなっている。
本展でも、女性が持つ感性に注目して“愛について”とタイトルを付けたと解釈したい。

しかしながら、各アーティストの国内(ナショナル)に根付いた事柄への関心の高さは、いまグローバル化が転換点を迎えていることが無意識か意識的かわからないが反映されている印象を持った。たぶん10~15年前であったら、グローバルな視点による共通の作品テーマが各国のアーティストから提示され、それらを傾向としてキュレーションすることが可能だっただろう。本展からは、現在のアジアの女性の国内を向きがちなパーソナルな関心を感じ取ることができる。数多いアジアの女性アーティストの中から、彼女たちが選出された理由もそこにあると解釈できるだろう。世界の趨勢とは違い、日本ではまだ反グローバル的な動きは強まっていない。また、フェミニズムに対しても、個人の主観だととらえるような風潮が見られるという意見も聞く。日本から選出された須藤の作品は、自分の内面を掘り下げ、類まれな想像力を駆使して生み出されたセルフポートレートだ。それらは、見事に現在の日本の状況が反映されている。

本展は、かつてのように女性のジェンダー的なこだわりを中心に提示するのではなく、タイトルが示すように、日本を含む現在のアジアの、まとまりのない、ばらけた状況を提示する展示になっている。笠原氏のいままでの仕事の区切りとなる展覧会ともいえるだろう。

愛について
アジアン・コンテンポラリー
東京都写真美術館

http://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3096.html

見どころ満載!トミオ・セイケ 写真展
「Street Portraits : London Early 80s」

ブリッツは、10月12日からトミオ・セイケの「Street Portraits: London Early 80s(ストリート・ポートレーツ:ロンドン・アーリー・80s)」展を開催する。

ここ数年、ブリッツはセイケが1980年代初めに英国で制作した初期作品を集中的に紹介している。2016年にリヴァプールの若者グループを撮影した「Liverpool 1981(リヴァプール1981)」展、2017年には、ロンドン在住の若きストリート・パフォーマーの生き方をテーマにした「Julie – Street Performer(ジュリー – ストリート・パフォーマー)」展を行っている。
本作は、若かりしセイケが前2作に続いて1983~1984年にロンドンで取り組んだプロジェクトとなる。ちょうど代表作「ザ・ポートレート・オブ・ゾイ」に取り組み始めた時期とも重なってくる。

実は本シリーズの一点は、2007年秋に上海アート・ミュージアムで行われた「Japan Caught by Camera :Works from the Photographic Art in Japan」に展示されていた。私は同展カタログでセイケ作品を発見。本人に確認したところ、1984年にツァイト・フォトサロンで発表されたシリーズの一部であることが判明した。ツァイト・フォトサロンのコレクションが同展で展示されたのだと思われる。今回の写真展はなんと約34年ぶりの日本での本格的な公開となる。

80年代の初頭、セイケはロンドンのストリートでファッションを通して自らのアイデンティティー探しを始めた若者たちに興味を持つ。戦後から70年代後半くらいにかけて、英国を含む西洋先進国の個人は、かつての因習やタブー、家族や他人の期待から自由になる。戦前までファッションは常に階級と深く関連していた。この時代は一般大衆向けの実用的な様々なストリート・ファッションが普及して状況が激変していくのだ。しかし本作が撮影された80年代前半ごろは、大きなファッション・トレンドが存在するというよりも、まだ複数の価値基準が混在している状況だった。多くの人は何を着て、どのように暮らせばよいかの拠り所がなく、自らのスタイルを探し求めていた。このころからファッション写真も雑誌などを通して一般大衆のスタイル構築に重要な役割を果たすようになる。セイケは、このような状況下でファッションでの自己表現に目覚めたロンドンの若者たちの姿を的確にドキュメントしている。

彼らは、いままでのファッションのルールを無視して、いま流行りの服、古着、安物アクセサリー、小物などをごっちゃに取り入れていた。いろいろな時代のファッションを組み合わせ、独自のコーディネートに挑戦しているのだ。セイケは、当時の日本の若者の型にはまったカジュアル・ファッションとのセンスの違いに驚かされたという。ロンドンの若者たちの洗練されたファッション・センスは現在でも十分に通用するだろうと語っている。

注目してほしいのは、洗練されていない感じの若者たちのポートレートが展示作の中に1枚あることだ。前記した上海の展覧会のカタログ掲載作品だ。その写真には、MA-1っぽいフライトジャケットとロンデスデールのスウェット、フレッドペリーのポロシャツ、ジージャンを着た3人の若者が写っている。自分たちのセンスを表現しているのではなく、当時のブランドものファッションを着ている。私はこれこそは、80年代の日本の若者のファッションを象徴的に表している作品ではないかと疑っている。3人の若者の背格好も、白人というよりも、アジア系に近い感じだ。セイケらしい、非常に高度なウィットとユーモアを密かに仕組んだ作品ではないかと思う。80年代の日本のファッションを知っている世代の人は、ぜひ当時を思い出しながら見比べてほしい。

本シリーズは、被写体のファッションと、その背景のストリートシーンを通して、80年代初めのロンドンの気分や雰囲気を私たちに伝えてくれる。そして日本で撮影された写真はないが、日本のファッション・シーンについても語っている。これらは、時代性が反映された優れたドキュメントであるとともに、アート作品になりうる広義のファッション写真ともいえるだろう。

セイケといえば、 ライカ・カメラを使用していることで知られている。しかし、本作では、6X6cmのスクエア・フォーマットの2眼レフカメラ、ローライフレックスを使用している。70年代後半から80年代にかけては、フリークスのドキュメントのダイアン・ アーバスや有名人ポートレートのリチャード・アヴェドンのように、ローライフレックスでの作品制作がブームだった。キャリア初期のセイケも、様々なフォーマットのカメラを使用して、自らの作品スタイル構築を模索するとともに、様々な創作の可能性を探求していたのだろう。

本展では、セイケの初期作約22枚が展示される。ほとんどが、貴重な撮影当時に制作されたヴィンテージ・ゼラチン・シルバー・プリントとなる。印画紙の銀の含有量が多いためか、非常に濃厚で芳醇な印象の美しいモノクロ・プリントだ。アート写真ファンには必見の作品だろう。
毎回好評ですぐに売り切れるフレーム付きミニ・プリント。今回も4セット、各15作品のみの限定販売で用意している。非常にレアなトミオ・セイケ写真集「Paris」のサイン入りデッドストックの入札式オークションも企画している。
「Street Portraits : London Early 80s」は、見どころ満載の写真展だ。アート写真ファンはもちろん、ファッションに興味ある人もぜひ見に来てほしい。なお本展は日曜日もオープンする。

トミオ・セイケ 写真展
「Street Portraits : London Early 80s」
(ストリート・ポートレーツ : ロンドン・アーリー80s)

2018年 10月12日(金)~ 12月16日(日)
1:00PM~6:00PM
休廊 月・火曜日入場無料

ブリッツ・ギャラリー
http://www.blitz-gallery.com

 

日本の新しいアート写真カテゴリー
クールでポップなマージナル・フォトグラフィー(11)
作品の見立てと市場価値の関係

今回は写真の見立てと、作品の市場価値との関係について検討してみたい。私は見立てについて、その問題点や考え方の不明瞭なところを常に考察している。
どうも日本では、作品の見立ての積み重ねが進まず、市場性が高まらないのではないかと考えている。
アート界では、買う、コレクションするのが究極の作品評価だとされている。
もしくは美術館やギャラリーなどの場合、お金(経費)を出して展示してくれる、カタログを制作してくれる、一部を購入してくれる行為に当たるだろう。
つまり、言葉よりも、お金を出すかどうかということだ。
しかし好きで買う、お金を出すのが一人や二人では市場性があるとは言えない。
ある程度の人数の評価の積み重ねの末に市場性が出てくることになる。
ここには、資金力のある人や組織の評価や好みが市場性と強く関わるという矛盾も内包している。

まずは海外の事象を見てみよう。海外にも自らが作品についてを語らないが、第3者によりテーマ性が見立てられた写真家がいる。例えば、日本でも人気の高いソール・ライターやヴィヴィアン・マイヤーなどだ。フランス人アマチュア写真家ジャック=アンリ・ラルティーグはそのはしりといえるだろう。
彼らの作品は、長年にわたる複数の人の見立ての積み重ねにより作品のアート性が認知されている。そして結果的に、複数の見立てが市場での作品価値が上昇につながっている場合が多い。

ソール・ライターの例を紹介してみよう。
2018年5月のササビーズ・ロンドンの“Photographs”オークションでは、“SHOPPER,1953”、“PHONE CALL,1957”の11 x 14インチサイズのサイン入りの、モダンプリントが出品されている。ともに落札予想価格内の1万ポンド(@150/約150万円)で落札。同じくフィリップス・ロンドンで開催された“ULTIMATE EVENING & PHOTOGRAPHY DAY SALE”では、写真集の表紙掲載作の”Through Boards,1957″が1.125万ポンド(約168万円)、“Foot on the El,1954”が1万ポンド(約150万円)で落札されている。
いずれの作品も約11 x 14インチサイズ、サイン入り、タイプCカラー、モダンプリント。コレクター人気はいまだに続き、相場も高値で安定している。ちなみに約10年前の2008年は、同様の作品の相場は2000~3000ユーロ(@130/26~36万円)だった。
ヴィヴィアン・マイヤーは世界に注目浴びた時点ですでに亡くなっていた。それゆえに死後に制作された、エステートプリントに当たる作品しか存在しない。
しかし彼女の作品は、なんとニューヨークの老舗ギャラリーのハワード・グリンバーグでエディション15で販売されている。将来的に、オークション市場で人気が高まる可能性はあるだろう。

しかし、日本の写真家は公共機関での個展開催、市町村、新聞社、企業主催の写真賞を得ても市場価値にあまり影響がない。グループ展に選出された新進写真家などは、すぐに忘れ去られてしまう。日本には写真評価の一貫した客観的評価軸がなく、展示する人、売買する人、集める人がそれぞれの独自の基準を持っている。違う価値観を持った人は、他人の見立てには関心をいっさい示さない。つまり、長年にわたる作家活動を通して、写真家のテーマ性が単発的・局地的に認知されることはあるが、それが幅広いコレクターやディーラーの見立てにつながり市場性が高まるまでにはいかないのだ。
別の言い方をすると、日本写真をアートとしてコレクションしたり売買する市場が小さいから、見立てからの作品価値への影響が少ないとも解釈できる。つまり海外では、見立てがディーラーやコレクターに広がることで市場性が一気に高まる。そもそも日本には、日本写真のディーラーやコレクターがほとんど存在しない。海外で認知されている写真家を扱うディーラーや集めるコレクターしかいない。
以前にも述べたが、海外市場においても欧米の評価基準に合致している日本写真は、見立てが積み重なることで評価上昇につながっている。現代アート的なテーマ性や、多文化主義の視点からの評価のことだ。

日本では、いまのところ見立てと市場価値とはあまり関係性がないといえるだろう。状況はかなり複雑で、様々な意見や考え方があることは承知している。私は1990年代から日本市場を見ているが、日本独自の市場が極端に小さいという状況に変化の兆しはない。どちらかというと、経済の低迷の影響で縮小しているという印象すらある。しかし現状については、いまではある程度明確に認識できていると考えている。本連載で繰り返し主張しているように、海外の人たちにも、作品制作継続を通してテーマ性が見立てられるという日独自の価値基準の存在を知ってもらうのが重要だと考える。もしそれが伝われば、海外市場での日本人写真の見立てにつながり、彼らの市場価値も規模が大きい海外市場とつながる可能性がでてくるだろう。何度も繰り返しになるが、まずは国内での啓蒙活動の継続が重要だと理解している。

2018年秋のアート写真シーズンがスタート
大手・中堅ハウスのオークション・プレビュー

夏休みシーズンも今週で終了し、いよいよ来週からアート写真のニューヨーク定例オークションが開催される。大手と中堅のスケジュールと見どころを紹介しよう。

〇大手ハウスのオークション開催予定

  1. 10月3日
    Sothebys(ササビーズ)
    https://www.sothebys.com/en/
    ・Contemporary Photographs 78点
    ・Photographs 130点
  2. 10月4日

    Phillips(フィリップス)
    https://www.phillips.com/
    ・A Constant Pursuit: Photographs from the Collection of
    Ed Cohen & Victoria Shaw 83点
    ・Photographs 216点
  3. 10月4日~5日

    Christie’s(クリスティーズ)
    https://www.christies.com/
    ・An American Journey: The Diann G. and Thomas A. Mann
    Collection of Photographic Masterworks  184点
    ・Photographs 181点〇中堅ハウスのオークション開催予定
  4. 10月2日、Bonhams(ボナムス)
    ・Photographs 138点
  5. 10月12日、Heritage Auctions(ヘリテージ)
    ・ Photographs Signature Auction 430点
  6. 10月18日、Swann auction galleries(スワン)
    ・Artists & Amateurs: Photographs & Photobooks 433点

中~高価格帯を取り扱う大手3業者の出品数は872点(昨年同時期は874点、クリスティーズのMoMAオンライン・オークションを含む)、低価格帯を取り扱う中堅3業者の出品数は1001点(昨年同時期は985点)。今回もほぼ昨年並みの膨大な数のアート写真がオークションにかかる。
今回、ササビーズは午前に現代写真、午後に20世紀写真をカテゴリー分けしてオークションを行う。これからは、21世紀写真も高額作品は現代アートオークションの一部、中低価格帯は現代写真のカテゴリーに分類される可能性は十分にあるだろう。今後も各社による試行錯誤が続くと思われる。

フィリップスとクリスティーズが単独コレクションのセールを開催する。特に注目されているのは、クリスティーズの“An American Journey: The Diann G. and Thomas A. Mann Collection of Photographic Masterworks”だ。第1次大戦前から第2次大戦後の作品までの代表作を幅広く含む写真史の教科書的な184点のコレクションのセールとなる。フォト・セセッションを代表するアルフレッド・スティーグリッツのフォトグラヴュールの代表作、“The Terminal,New York, 1892”、“The Hand of Man, 1902”、“The Steerage, 1907”、30年代FSA(Farm Security Administration)時代の、ドロシア・ラング、ウォーカー・エバンス、マーガレット・バーク・ホワイトらの名作、モダニズム写真のポール・ストランド、エドワード・ウェストン、アンセル・アダムス、またロバート・メイプルソープ、アーヴィング・ペンなども含まれる。ちなみにスティーグリッツの“The Steerage, 1907”は、予想落札価格20~30万ドル(2200~3300万円)。いま20世紀初期の数多くのヴィンテージ作品が美術館や主要コレクションの収蔵品となり、市場での流通量が極めて低くなってきている。現在では、貴重な傑作によるコレクション構築はもはや不可能だと思われる。このような極めて貴重なコレクションが現在の市場でどのような評価で取引されるのか、関係者は皆注目している。見方を変えると、現代美術などと比べるとはるかな低予算で20世紀写真の歴史を語る重要作が一度にコレクションできるチャンスだともいえる。

フィリップスの“A Constant Pursuit: Photographs from the Collection of Ed Cohen & Victoria Shaw”も、エド・コーエン氏によるパーソナルな視点からの良いコレクションのセールだ。注目作はリチャード・アヴェドンの代表作“Marilyn Monroe, New York City, May 6 1957”のヴィンテージ・プリント。予想落札価格は、20~30万ドル(2200~3300万円)。

その他の個別作品で注目されているのは、クリスティーズの複数委託者セールに出品されるダイアン・アーバスによる双子の少女を撮影した代表作“Identical twins, Roselle, N.J., 1966”、予想落札価格50~70万ドル(5500~7700万円)。
ササビーズの複数委託者セールに出品される、カタログのカヴァー作品となるアレクサンドル・ロトチェンコの有名作“GIRL WITH A LEICA (DEVUSHKA S LEIKOI)”は、予想落札価格30~50万ドル(3300~5500万円)。

現代アート系では、フリップスのPhotographsオークションカタログのカヴァー作品となるヴォルフガング・ティルマンスの大判抽象作品“Freischwimmer 20, 2003”。エディション1、アーティスト・プルーフ1の希少作品で、予想落札価格は12~18万ドル(1320~1980万円)。同じく、シンディー・シャーマンの“Untitled #296, 1994”は、予想落札価格は18~22万ドル(1980~2420万円)となっている。

(1ドル110円で換算)

BOWIE:FACES 名古屋展
鋤田正義 トークイベント

“BOWIE:FACES”名古屋展は、先週日曜16日に10日間の会期を無事に終了した。来場してくれた多くの人たちに心より感謝したい。

初日には同展関連イベントとして鋤田正義のトークイベントが開催された。私も、聞き手として参加した。
最近の鋤田は、自らのキャリアを紹介するドキュメント映画公開や回顧展開催などがあり、数多くのトークイベントを行っている。本人も人前で話すのに慣れてきたと語っていた。それらの多くは、音楽関係者が聞き手になって、鋤田の目を通してのミュージシャン(特に多いのはボウイ)のエピソードやその音楽性や人間関係を語ってもらう傾向が強かったと思う。私はアート写真に関わる人間だ。今回のトークでは、鋤田のポートレート写真のアート性に焦点を当てたものにしようと考えた。

世の中にはボウイを撮影した膨大な写真が存在する。それらは大きく分けて二つの種類に分類できる。ほとんどは、彼をスナップしたブロマイド的な写真。しかし、それとは別にファインアートとして認識されているボウイの写真がわずかだが存在する。以前にも述べたように“BOWIE:FACES”展では、そのような写真作品を展示しているのだ。
両者の違いは、被写体と撮影者との関係性にある。スナップには両者の一瞬の出会いがあるだけ。深い関係性は存在しない。ファインアート系では、被写体と写真家が知り合いであり、二人が互いにリスペクト持つことが重要。被写体が、自分のいままでに気付かなかった斬新なヴィジュアルを写真家に引き出してほしいという心理状態を持つ時に、奇跡のようなポートレート写真が生まれるのだ。BOWIE:FACES展では、ブライアン・ダフィー、テリー・オニールなどのファインアート系の写真作品をアイコニック・イメージのロビン・モーガン氏が取捨選択してキュレーションが行われた。そして唯一の日本人として鋤田正義が選ばれているのだ。
彼は1972年のボウイとのロンドンでの出会いから約40年以上に渡り交流を持っている。トークの中にも、ボウイが鋤田をアーティストとしてリスペクトしていた例として、1980年にボウイが出演した宝焼酎「純」のエピソードが紹介された。当時、日本人写真家でボウイと一番懇意にしていた鋤田にこの仕事の依頼は来なかったのだ。しかし、ボウイはコマーシャル撮影後に京都でのプライベートの撮影を鋤田に依頼している。当時、鋤田は仕事が依頼されなかったことを残念に感じたという。しかし、ボウイは鋤田を企業の希望する広告用の写真を撮る人ではなく、写真で自己表現を行うアーティストとしてリスペクトしていたのではないかと、かなり後になって気付いたという。それは写真集や展覧会などの主要な写真セレクションはすべて鋤田自身に一任されていることから意識したそうだ。デヴィッド・ボウイ、イギー・ポップ、YMOなどの大物でも鋤田の判断に一切口を挟まないという。それらの写真はファインアート写真としてギャラリーで取扱いができるのだ。
一方で日本のミュージシャンの写真の方が、はるかに所属事務所からの使用指示が細かいと語っていた。
日本では、写真家はアーティストだと考えられていないからこのような状況が起こるのだ。欧米ではファインアート系写真家と、広告写真家とは明確に線引きされている。前者は自己表現追及を行う人だとリスペクトされるが、広告写真家は写真でお金を稼ぐ職業人だと思われている。

今回、鋤田正義の写真流儀を聞いたとき、彼の母親の話になった。2014年に富士フィルムの創業80周年記念コレクション展“日本の写真史を飾った写真家の「私の1枚」”が開催された。日本写真界の代表写真家が自分のお気に入りの1枚を選んで展示するという企画だ。鋤田はその1枚を代表作であるデヴィッド・ボウイのポートレートと、初期作“母”のどちらにしようか悩んだ。そして、彼は“母”を選んでいる。彼は事あるごとに同作は自身の最高傑作で今でも超えることができないと語っている。
また、子供の時に母親から聞かされていた二つのメッセージを語ってくれた。
“好きこそものの上手なれ”ということわざと、“世の中寝るほど楽はなかりけり”という江戸時代の狂歌だ。私は特に前者のことわざが鋤田のキャリア形成に大きな影響を与えたと感じた。このごろ、ビジネス界では人生や仕事の成功には、生まれながらの能力や生活環境とともに、仕事を継続して“やり抜く力”が重要だといわれている。英語では“グリット”などと呼ばれている。鋤田の母親が語った“好きこそものの上手なれ”はまさにそのことで、彼はそれを実践してきた。
しかしそれは、ただ何かをやり抜くことではない点にも触れておこう。また嫌なことを歯を食いしばって継続することでもない。本当に自分に合った好きなことを見つけなくてはならないのだ。私はその部分が極めて難しいと理解している。多くの人がそれが見つからないで、また捜し求めないで不本意な人生を送ることになる。

鋤田が人生をかける写真の仕事と出会ったのは母親のおかげである事実がトークからは伝わってきた。鋤田の母親はカメラが欲しいといった鋤田少年に当時としては高価な2眼レフのリコーリフレックスを買い与えている。親ばかだったかもしれないが、そのよう大胆な決断を下せた母親が偉かったのだ。これは多くの人が納得するところだろう。

そして、二つ目の“世の中寝るほど楽はなかりけり”だ、この狂歌には“浮世の馬鹿は起きて働く”という文章が続いている。正確な解釈はないが、世の中には寝ることを惜しんで無理して働くことなどない、という意味ではないだろうか。
いま過労死などが問題視されているが、好きでもない仕事を無理して頑張る必要はないともとれる。そう解釈すると、ことわざと狂歌の暗示している意味が見事に関連しているのだ。鋤田は写真の仕事は徹夜などがあり大変だったけれど楽しんでいた、特に苦痛ではなかったと語っている。そして疲れたら、“世の中寝るほど楽はなかりけり”の部分をまさに実践していたのだろう。また、これはストレスをため込まずに生きていくとも解釈できる。鋤田は今年5月に80歳になった。今でも精力的に写真撮影や講演活動を行っている。その元気の源は母親の言葉を実践しているからではないだろうか。そしていま、それを若い人や子供を持つ人へのへのアドバイスにもしているのだ。

最後に鋤田は、いま最も美しい究極の風景写真を撮影したいと語っていた。彼は“あこがれ”を撮り続けてきたというが、80歳を迎えその対象が風景に変わりつつあるようだ。そのシーンは九州にあるはずだとイメージしているようで、いま活動拠点を生まれ故郷の九州福岡に移す計画を立てている。鋤田はポートレート写真で知られるが、キャリアを通してランドスケープやシティースケープも撮影し続けている。将来的に風景の展覧会や写真集制作の企画を温めているのだ。たぶん、その風景写真シリーズの最後を飾る1枚がまだ撮れていないのだろう。
私はそれは無駄がない非常にシンプルな写真になるのではないかとイメージしている。禅僧が一生に一度描くという、図形のマルを一筆で描いた「円相」がある。それは宇宙の心理や悟りを象徴的に表しているという。たぶん鋤田の究極の風景はその写真版のようなヴィジュアルではないかと想像している。

鋤田正義の名古屋トークイベントでは、彼の何気ない言葉の中に多くの深い意味が発見できた。今回のイベントで鋤田の話を聞いたことで、見る側がその作家性を認識できたのならば、写真作品にも特別の価値を見出せるようになったはずだ。
トーク終了後は、BOWIE:FACES名古屋展会場の高山額縁店には多くの人が来てくれた。彼らは、ただボウイのポートレートを鑑賞するだけではなく、自分の価値観を揺さぶるアート作品と対峙していたのだと思う。

BOWIE:FACES名古屋展(納谷橋高山額縁店)

写真展レビュー
立木義浩 写真展 Yesterdays
黒と白の狂詩曲(ラプソディ)
@シャネル・ネクサス・ホール

ⓒ  Yoshihiro Tatsuki

立木義浩(1937-)といえば、代表作は“舌出し天使”だろう。カメラ毎日の伝説の写真編集者・山岸章二氏が、1965年の同誌4月号の巻頭56ページに掲載した立木の伝説のデビュー作だ。
これは当時売り出し中の若手写真家立木による、一人のハーフ・モデルのスナップで構成された都市のファンタジー作品。同誌に掲載された草森紳一氏の解説には、“・・・・文明批評などと考えないでほしい。夢の観客であってほしい。立木義浩も夢の運転者であると同時に観客なのだ。この写真集の新しさはそこにある。これは従来の数々の主観写真、心象写真などとももちろん異なっている。彼は、写真が文学や絵画の弾力を受けないこと、つまり象徴におちいりがちなセンス(意味)と構図の魅惑を一応放棄したのだ”と書かれている。
草森氏の解説には、編集者の山岸氏の意図が反映していると思われる。これは、立木の写真は、当時のアート写真・広告写真のジャンルにとらわれない写真であり、言葉では表現できない時代の持つ気分や雰囲気を巧みに掬い取った作品という評価だろう。60年代の英国ロンドンのストリート発ファッション写真が意識されており、その日本版を意識したのでないかかと思う。

同作には当時の若い日本人男性があこがれていた、西洋的な顔立ちのハーフの女性がモデルとして採用されている。それは海外では、西洋文化の真似の表現のように写ったと思われる。西洋では各国の伝統文化の独自性を愛でる多文化主義の流れがある。残念ながら本作はその評価軸には乗ってこなかった。当時の日本は、まだアート系写真と商業写真が併存していた。私は、山岸氏は本作などを通して、欧米とは違う日本独自のアート写真の価値基準の提示を考えていたのではないかと想像している。
しかし、山岸氏は79年なくなってしまい、その後の日本の写真界はバブル経済に突入し、商業写真が席巻してしまう。多くの人が、膨大な予算を持つ商業写真の先に、自由なアート表現の可能性があると考えてしまったのだ。しかし、それは不況と共に夢と消えてしまう。その時に、商業写真に背を向け生き延びた数少ない写真家が、いま海外から多文化主義の見地からアート系作家として評価を受けているのが現状なのだ。

さて、日本では自らの作品メッセージを写真家自身が語らないときに、第3者による見立てが行われることになる。そして長年の創作の過程で、複数の人による見立ての積み重ねが行われ、ブランド構築につながる。
見立ては自分が持つ作品への感覚、つまり感じたことを言語化することではないと考える。内観は自分に嘘をつくと心理学では言われている。ここは見立ての理解の上で勘違いを生みやすい箇所だ。
さて当然のこととして、日本には長く活動を続けている写真家が数多くいる。その中にはテーマ性が見立てられる人がいる一方で、感覚的に好みが語られるだけの人がいる。その違いはどこから来るのだろうか。たぶん前者は、人間社会は幻想のようなものであるが、人間はそこで生きる以外の選択肢がないと諦観しているリアリストの人で、後者は自分の感覚を重視するロマンチスト的の人なのではないかと疑っている。両者の作品制作の姿勢も明らかに異なる。前者は、創作は多くの人とのコラボレーション的要素が強いと理解している。後者は自分のやりたいことだけを追求しがちになる。そして後者の中で、優れた時代感覚を持つ写真家は、単にフィーリング重視でスナップ撮影するだけではない、社会に横たわる気分や雰囲気が反映された広義のアート系ファッション写真的な作品を提示しているのだ。立木義浩の写真はこのカテゴリーに入り、シャネル・ネクサス・ホールはその視点から彼を評価したと私は考える。

それでは。今回の展示作品はどのように理解すればよいのか。プレスリリースには“日常のなかでふと眼にした光景にレンズを向けるスナップショットを軸に、4人の女性とのフォトセッションを交え、構成されている”と書かれている。詳しい撮影年などの記述はプレスリリースなどで発見できないが、現代の東京でモデルを使って撮影されたポートレート、風景などのスナップ作品のようだ。ほとんどがモノクロのスクエアーの作品、一部にタテ長のカラー作品が含まれる。
これは立木が21世紀の東京において、彼自身がパーソナルに感じている時代の気分と雰囲気を表現した作品なのだ。“舌出し天使”のDNAが確実に受け継がれていると理解できるだろう。しかし、現在は“舌出し天使”が発表された1965年とは社会状況が全く違う。このような写真は多くの人が共通の価値基準と、同じ将来の夢を持つような時代背景があって成立する。1965年はそのような時代だった。しかし90年代以降の、価値基準がばらけて多様化した。このような時代には、多くの人の共感するようなアート系ファッション写真は成立しにくくなる。このたび“舌出し天使”が再版されるという。若い時にこの時代を生きた団塊の世代が主要な顧客になるだろう。別の言い方をすると、“カッコイイ”の意味が時代によって変遷するということだ。

20世紀に活躍した写真家を、21世紀に紹介する場合、無理矢理に現代アート的なテーマ性をキュレーターや編集者が作品にくっつける場合がある。しかし写真家自らがテーマ性を紡ぎだしたのでないので、体裁を整えただけに見えて違和感を感じる場合が多い。立木はそのようなことはせずに、今回“舌出し天使”の2018年版と解釈できる作品を提示したのだ。
ただし、山岸が亡くなって以来、立木のような写真家の評価軸は誰からも明確に語られなくなった。特にいまの外国では彼らを評価する基準は存在しない。このたび世界的なブランドが運営するシャネル・ネクサス・ホールで立木の写真展が行われたことは重要だと思う。本展開催で日本の写真史の未開拓分野を暗に指摘したているといえるだろう。これがきっかけになって、国内外からの関心が集まり、日本独自のアート写真の論議が巻き起こることを期待したい。

立木義浩写真展
Yesterdays 黒と白の狂詩曲(ラプソディ)

会期:2018年9月1日~9月29日
会場:シャネル・ネクサス・ホール
東京都中央区銀座3-5-3 シャネル銀座ビルディング4階
開館時間:12:00~19:30 (9月14日 17:00まで)
休館日 :無休

https://chanelnexushall.jp/program/2018/yoshihiro_tatsuki/