INSULA LUX 光の島
アントニ タウレ展
@シャネル・ネクサス・ホール

INSULA LUX ©Antoni Taule

アントニ タウレ(Antoni Taule)は1945年スペイン・バルセロナ県サバデル出身。建築家を経て画家/写真家となったアーティストとのこと。
日本初個展となる“INSULA LUX 光の島”では、長年暮らし、創作の源となった地中海のフォリメンテーラ島を描いたシリーズが展示されている。彼が“私のイメージ、絵画と写真は密接に関連しているため、それらを切り離すことは難しい”と語っているように、展示されている絵画作品は写真とのかかわりを強く感じさせられる。写実的で光を巧みに取り入れた作風は、20世紀アメリカ画家のエドワード・ホッパーを思い起こすという人もいるだろう。
厳密には、展示されているのは2種類の作品となる。大判サイズの“Oil on canvas”の絵画のキャンバス作品と、写真の上に油彩で着色された24X36cmサイズの“Oil on C-print”の額装作品だ。前者の絵画は2016~2018年に描かれたもので、後者は過去に撮った写真の上に主に2018年に絵を描いたものだ。キャンバス作品が大判サイズなのに“Oil on C-print”が小ぶりになっている。たぶん写真では十分なクオリティーのヴィジュアルが技術的に引き伸ばしきれなかったのだと想像できる。しかし大判キャンバス作品も、間違いなく最初に写真が存在していて、それをベースに室内空間を描き、扉の外の風景を想像して描いたのだと思う。

現代のアート界では写真はアーティストの表現技法のひとつと認識されるようになった。21世紀になって進歩した写真のデジタル化とアート界の現代アート優先の動きによってそれはさらに加速された。
アントニ タウレはかなり以前から写真を作品表現の手段として取り入れてきた画家なのだろう。“Oil on C-print”では、写真撮影された室内写真と絵画で描かれた太陽光で輝く扉越しの野外の風景が連続している。つまりCプリントの一部に絵の具でイメージを描きこんでいるのだ。それも写真と同様に精密かつ写実的にディテールを描きこんでいるので、一見しただけでは写真と絵画とが一体化しているような印象だ。
ウィリアム・クラインや荒木経惟などのように、プリントされた写真の表面に絵の具で着色したりデザイン画を加える人はいる。しかしアントニ タウレのような両メディアを連続させ一体化させて見せるアプローチはあまり見たことがない。画家の視点で写真を表現方法に取り入れているのだ。
写真はその撮影場所のドキュメンタリー的な要素が強くなる。そこに想像力を生かして絵画を描き融合させることで、現実と空想が一つのヴィジュアルの中で共存可能になる。もう70歳を超えているのに、まるで若きアートスクールの学生が描いたかのような印象さえ受ける意欲的なアプローチだ。

INSULA LUX ©Antoni Taule

多くの作品では、空虚でオープンな暗い室内スペースが手前にあり、その先に明るい外界につながる扉が描かれている。室内には人物像、ソファー、装飾、連なる間口。扉の先には、輝く真っ白な光の開口空間、古代の建造物、海岸線、荒地、道、樹木、幻影などが描かれている。それらは時に見る側の想像力を展開させるヒントとなる。彼はこの手法で空間を表現することで、現実の中に想像上のまだ見ぬ未来への切り口を描いたのではないだろうか。
その未来には喜びも、悲しみも様々あることを暗示しているが、光の洪水の空間が象徴するように最終的には天国(死)が待っているということではないか。その静謐な作品は一種の欧州の伝統的な宗教画との関わりを思い起こさせる。ただし、瞬間を切り取る写真を使用することで、今に生きることを重視する東洋の知恵も作品のエッセンスとして取り込んでいるのかもしれない。作品の背景を色々と想像させてしまう魅惑的な作品の展覧会だ。

INSULA LUX ©Antoni Taule

最近の写真展はカメラ関連企業主催によるアマチュアを意識したものが主流になりつつある。知的好奇心の強いアート系のファンからは、写真系は表層重視で物足りない作品展示が多いという声を聞くことが多い。今回のアントニ タウレ展は、まさにアート系写真を好む人たちが待ち望んでいた展覧会だろう。

会期:2月14日(木)まで開催(入場無料・会期中無休)
時間:12:00~19:30 
会場:シャネル・ネクサス・ホール
(中央区銀座3-5-3 シャネル銀座ビルディング4F)https://chanelnexushall.jp/program/2019/antonitaule/

写真展レビュー
“ちいさいながらもたしかなこと”
@東京都写真美術館

東京都写真美術館の、新人若手写真家の写真を展示する15回目の企画展。多くの人が気になるのは、膨大な数の写真家の中から彼らが選出された基準だろう。それについては、プレスリリースやカタログには明確な説明や記載がない。
それでは本展タイトル“ちいさいながらもたしかなこと”からヒントを探してみよう。担当のキュレーター伊藤貴弘氏は、カタログ・エッセイの「おわりに」に、“彼らに共通するのは、自らの感性や考え方、アイデンティティーやリアリティーをてがかりに、社会とのかかわりを意識しながら個人的な視点で作品を制作していることだ。その姿勢は、今を生きるアーティストであれば誰しも少なからず持っていて、目新しいものではないかもしれない”と述べている。カタログの「ごあいさつ」にも同様の開催趣旨が書かれている。個人的には確かであるものでも、決して普遍的ではない点を開催者は認識しているのだ。伊藤氏は、タイトルはそのようなやや逆説的なニュアンスもあるとも語っていた。
どうも今回の新人若手写真家展は、美術館が2018年現在の時代性を最も表した写真家を審査の上で選出したというよりも、責任キュレーターのパーソナルな視点により企画されているようだ。まずこの点を知った上で鑑賞することが必要だろう。

しかしたぶんこれは美術館により確信犯で行われていると私は考えている。抽象的な言い方になるのだが、現在は価値観が多様化した時代だといわれている。いくら多様な価値観の展示を試みても、それらは取り上げるキュレーター、評論家、ギャラリスト、写真家らにとっては個人的に意味を持つが、決して多くの人が共感するような一般的なものにはなりえないのだ。そうなると、新人選出の方法論は複数の専門家による価値基準の調整を行った上で行うか、個人の専門家の視点を生かしたキュレーションかになるだろう。前者がキャノンの写真新世紀や朝日新聞出版の木村伊兵衛賞、後者が本展のような美術館展となる。個人による判断には偏りがでるという批判もあるかもしれないが、同館のようにほぼ毎年継続して行うのであれば問題ないと考える。単体としてではなく、複数の連続した企画として見ると、結果的な多様化した現代の状況が浮かび上がってくると思う。本展だけを単体で見ると視点が分かり難いと感じる観客もいるかもしれない。

選出されたのは30から40歳代の、森栄喜(1976-)、ミヤギフトシ(1981-)、細倉真弓(1979-)、石野郁和(1984-)、河合智子(1977-)。
それでは、写真家が自分なりに小さいながら確かだと認識してテーマとして取り上げて撮影しているのは何だろうか。それらは、感覚、家族、人間関係、ジェンダー、アイデンティティー、時事的な出来事、文化的差異、歴史、水の循環、視覚、方法論(撮影、プリント、展示)などだと思われる。
ちょうど、先月に「写真新世紀」の展示を同館で見た。これは世界中の人を対象とした複数の選出者による公募展。私は、外国人の作品が社会的問題点をテーマとして掘り下げて追求するのと比べて、日本人の関心が自分のことや内面に向かいがちだと感じた。大賞は、シンガポールの環境問題「煙霧」(ヘイズ)を表現したソン・ニアン・アン氏だった。同じような傾向は今回の展覧会でも見られる。それぞれの関心や興味は多種多様だが、多くの写真家の関心の前に“自分の”と付けると一貫性が出てくるのだ。社会的な事柄も、自分が個人的に関心を持つものなのだ。自分以外の人が、作品に興味を持ってもらう仕掛けへの工夫がやや物足りないと感じた。

本展の特徴は多くの人が写真以外に映像を流していた点だ。自分の感覚の流れや移ろいを表現するのには、スティールよりも映像の方が適しているからだろう。これは展示多様化の流れと、内向き表現の表れだと解釈できる。
また本展の参加者は、細倉真弓以外の4名はすべて最終学歴が海外の教育機関出身だった。しかし、作品が提示するタイトル・テーマなどの方法論は海外のファインアート系を意識しているのは分かるが、本質は自分で深く考え掘り下げるよりも、感性を重視した表現になっている。日本で教育を受けたアート系の若手の作品とあまり変わらないのが興味深かった。

いまや写真は誰でも撮影する真に民主化したメディアになった。特に日本はその最先端をいっており、写真は現代社会に生きる個々人の意識や集団無意識を反映させた表現になっていると感じる。そこには、歴史や伝統が背景のファインアートと応用芸術との違いなどない。プロ・アマの違いも存在しないのだ。このような認識に立てば、本展は写真表現に特化した美術館のキュレーターによる、現代日本の若い世代のセンチメントをサンプリングし掬い上げた非常に意欲的な試みだと解釈できるだろう。

小さいながらもたしかなこと
日本の新進作家 vol. 15
東京都写真美術館(恵比寿)

http://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3098.html

写真展レビュー
“写真 X 建築 ここのみに在る光”
@東京都写真美術館

東京都写真美術館は、膨大な数の写真コレクションをどのような切口で紹介するか常に試行錯誤を行っている。本年5月には、写真を“たのしむ、学ぶ”をキーワードに展覧会を企画している。
今回は“建築”の写真によるキュレーションに果敢に挑戦。しかし、雑誌カーサ・ブルータスを愛読しているような建築写真好きな人を想定しての企画ではない。あくまでも、写真ファンやカメラ愛好家を想定した、非常にオーソドックスな写真展だ。19世紀から現在まで続いている、拡大解釈された建築物を被写体として撮影された写真の歴史を網羅する構成になっている。
ちなみにカーサ・ブルータスは、2005年7月号で“見る、撮る、買う! 建築写真の愉しみ。”という特集号を出している。そのなかで、巻頭でトーマス・ルフ、ベッヒャー夫妻、カンディーダ・ヘーファを紹介。さらに“建築を記憶する傑出した10人。”として、ルネ・ブリ、エズラ・ストーラー、石元泰博、ジュリアス・シュルマン、ハイナー・シリング、アンドレアス・グルスキー、トーマス・シュトルート、ホンマタカシ、畠山直哉、ルイザ・ランブリをピックアップ。ギャラリー小柳の紹介ページでは杉本博司の「建築」シリーズを取り上げている。こちらは明らかにいま流行りの現代アート系作家の作品紹介を中心としていた。
本展と重なる写真家は、ベッヒャー夫妻、石元泰博だけ。同じ建築の写真だが切口が全く異なっている。

今回の展示で、現代アート系写真の重鎮であるベッヒャー夫妻の作品“9つの戦後の家”が含まれているのは非常に意味があるといえるだろう。これにより本展は、従来の写真表現自体でのアート性の追求から、現在の現代アート系写真につながる、写真がより幅広いアート表現の一形態となっていく未来像を示唆するものとなっている。以上から、この建築写真の企画は、現代アート系をフォーカスした第2部に展開する可能性を感じさせられる。もしかしたらその舞台は、現代アート系をカヴァーする東京都現代美術館かも知れない。

作品展示は2部で構成されている。写真の専門美術館らしく、ダゲレオタイプ、カロタイプ、アンブロタイプ、鶏卵氏、ゼラチン・シルバー・プリント、タイプCプリントなどのアナログ写真から、最新のデジタル技術で制作されたインクジェット作品までを含む、写真表現の歴史を提示する展覧会にもなっている。

第1章では同館が収蔵する貴重な作品群が展示されている。建築の写真なのだが、まるで19世紀から20世紀の写真史の教科書を見るようだ。一番古い写真はジャン=バティスト・ルイ・グロの“ボゴタ寺院の眺め”。これは1842年制作の1点物のダゲレオタイプ。世界初の写真集“自然の鉛筆”で知られるウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットのオックスフォードのクイーンズ・カレッジ、横浜に写真館を開き、日本全国を撮影したイタリア人写真家フェリーチェ・ベアトの“愛宕山から見た江戸のパノラマ”、ウジェーヌ・アジェの19世紀末のパリ、ベレニス・アボットの30年代の変わりゆくニューヨーク、ウォーカー・エバンスの米国南部の街並み、前記のベッヒャー夫妻によるタイポロジー作品も必見だろう。アート写真ファン、コレクター、写真やアートを学ぶ学生ならば、第1章の29作品を見るだけでも十分に本展を訪れる価値がある。

第2章では、渡辺義雄、石元泰博、原直久、奈良原一高、宮本隆司、北井一夫、細江英公、柴田敏雄、二川幸夫、村井修、瀧本幹也の日本人写真家11人のポートフォリオをミニ個展形式で紹介。こちらの方が展示数も多く、はるかに広いスペースが割り当てられている。
日本人の写真家の作品も、建築やインテリア自体が撮影されている写真と、広く建築写真と定義することは可能だが、写真家の表現が第一義になっている作品も混在している。写真家の代表作の一部といえる、石元の“桂”、宮本の香港にあった“九龍城壁”、細江の“ガウディの宇宙”、渡辺の“伊勢神宮”、奈良原の“緑なき島-軍艦島”、原の“イタリア山岳丘上都市”(展覧会チラシの写真)、北井の長きにわたり忘れ去られていた“ドイツ表現派1920年に旅”などのオリジナル作品を鑑賞することができる。多くは貴重なヴィンテージ作品だと思われる。最後の展示スペースでは瀧本が2017~2018年に撮影したという、“Le Corbusier”を展示。現在の広告分野の写真家が考える、建築に触発された作品が、抽象的でデザイン感覚重視の大判サイスの現代アート風であることを象徴的に紹介している。

本展カタログの解説で、キュレーターの藤村里美氏は、“渡辺、石元、二川は明らかに記録としての要素が強い”、“奈良原と細江は「パーソナル・ドキュメント」であり、あくまで個人に視点を強調している”、“原、北井、宮本の作品は(中略)個人の意識を抑制したフォト・ドキュメントである”、“柴田、瀧本は、全体像を追うのではなく、独自の視点から細部を強調し、対象の本質に迫ろうとしている”と展示作品を分析している。
専門家の視点からは様々な見方があるが、一般の観客はもっとシンプルに見ればよいだろう。本展の提示作品の中で、19世紀写真は表現というよりも記録目的だった。しかし、20世紀以降の写真になると建築自体を表現しようと撮影された写真と、写真家の自己表現の中に建築が写っている写真が混在している。私はこの大きな二つの方向性の違いを意識して作品に接することを提案したい。本展は建築がメインテーマなので、個別作品の生まれた詳しい解説はあまり紹介されていない。しかし見る側が作品と能動的に接したときに、写真家が何かを語りかけてくるのか、それとも建築物が主張しているかで違いが判断できるのではないだろうか。

“建築 x 写真 ここのみに在る光”
東京都写真美術館(恵比寿)
開催中 2019年1月27日まで
詳しい開催情報は以下を参照ください。

http://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3108.html

写真展レビュー
“愛について アジアン・コンテンポラリー”
@東京都写真美術館

本展はアジアン・コンテンポラリーとして高い評価をえているという、アジア出身の女性アーティストのグループ展。企画立案は、4月まで東京都写真美術館でキュレーターを務め、社会における女性の地位やジェンダーのあり方にこだわった展覧会を行ってきた笠原美智子氏による。

キム・インスク(在日コリアン3世)の、“ハイエソ:はざまから”は、在日家族史を収めた映像と日常のポートレートによる作品。
キム・オクソン(韓国)の“ハッピー・トゥゲザー”、“ノー・ディレクション・ホーム”は、グローバル化、多文化がテーマ。国際結婚している女性や国外居住者、外来植物を撮影。
ホウ・ルル・シュウズ(台湾)は、“A Trilogy on Kaohsiung Military Dependents’ Villages”で、戦後の新しい移民集落が姿を消す前の最後の姿を”二重視線”の手法で作品化している。
チェン・ズ(中国)は、自傷行為をテーマに作品を制作、内省的なドキュメンタリーの“我慢できる”と、被写体と交わした各種コミュニケーションを写真作品化した“蜜蜂”を展示。
ジェラルディン・カン(シンガポール)は、自らの家族や親戚にまつわる写真や記憶をもとに、祖母、家族兄弟らと架空のファミリー・ポートレートを撮影した“ありのまま”を展示。
須藤絢乃(日本)は、性別にとらわれない理想の姿に変装した自分自身や友人を撮影した“メタモルフォーゼ”、実在する行方不明の女の子に扮して撮影したセルフポートレート“幻影”などを展示している。

複数文化の中での様々な葛藤と調和、生きるための自傷行為、パーソナルなセルフポートレート、作られた家族写真、忘れられつつある歴史の提示などがテーマの展示は、カタログの“ごあいさつ”で書かれているように、家族、セクシュアルティー、ジェンダーの在り方など、女性が関心を持ちやすいテーマが取り上げられている。
それぞれの作品の制作年を見てみると、かなりばらつきがある。古い作品は、キム・オクソンの2002年制作の作品から、須藤絢乃の2018年制作の作品までが含まれる。“アジアン・コンテンポラリー・フォトグラフィー”ということだが、その意味は現在中心ではないようだ。21世紀最初の18年間における、時代ごとの価値観に影響を受け翻弄されたアジアの女性作家たちの多種多様な作品を展示する意味合いが強いと思う。この期間に世界は、グローバリゼーションと新自由主義の考えが一世を風靡した後に、リーマン危機などを経て一般市民層の経済格差が拡大した。結果的に米国のトランプ政権誕生や英国のEU脱退などに見られるように旧来なナショナルな方向への大きな揺れ戻しが起こっている。それぞれの展示作は、アーティストの出身国独自の問題点や、パーソナルな関心をテーマに、時代ごとの社会の価値観に影響を受けながら制作されているという印象を持った。

コンテンポラリーの日本をテーマにした展覧会のキュレーションは極めて難しいだろう。20世紀後半の一時期のように、多くの人が同じような価値基準や将来の夢を持つような状況ではないからだ。どうしても、狭い範囲内の局地的な視点を掘り下げて提示するものになる。それは、現代アートの世界での問題点やテーマの提示と何ら変わらなくなる。女性やフェミニストやジェンダーのテーマ自体もかなり多様化している。アーティストは、表層的で抽象的な問題にとらわれると自己満足してしまい、思考停止状態に陥ることが多い。21世紀のアーティストは、大きなテーマの中でそれぞれがより内面深く思索を行い、問題点を掘り起こし個別に興味あるテーマを提示しなければならない状況にある。
今回の展示を見て感じたのは、アジアや女性作家を切り口にしても、このような基本的な状況は変わらないことだ。その中で何らかの傾向を提示するのが極めて難しくなってきたのだと感じた。この辺のところはキュレーターの笠原氏の理解も同じで、カタログ巻頭で“このグローバル化し価値観が多様化した情報社会において、国や地域でアーティストを区切り、一つの傾向を示すのは不可能になっているのではないか”と記している。
しかし、美術館の展覧会では何らかの方向性を提示しないわけにはいかないだろう。海外で開催されている若手のグループ展でも、例えばICP(国際写真センターニューヨーク)の“A Different Kind of Order”のように抽象的なキーワードを採用したり、撮影者の世代でグルーピングするものが多くなっている。
本展でも、女性が持つ感性に注目して“愛について”とタイトルを付けたと解釈したい。

しかしながら、各アーティストの国内(ナショナル)に根付いた事柄への関心の高さは、いまグローバル化が転換点を迎えていることが無意識か意識的かわからないが反映されている印象を持った。たぶん10~15年前であったら、グローバルな視点による共通の作品テーマが各国のアーティストから提示され、それらを傾向としてキュレーションすることが可能だっただろう。本展からは、現在のアジアの女性の国内を向きがちなパーソナルな関心を感じ取ることができる。数多いアジアの女性アーティストの中から、彼女たちが選出された理由もそこにあると解釈できるだろう。世界の趨勢とは違い、日本ではまだ反グローバル的な動きは強まっていない。また、フェミニズムに対しても、個人の主観だととらえるような風潮が見られるという意見も聞く。日本から選出された須藤の作品は、自分の内面を掘り下げ、類まれな想像力を駆使して生み出されたセルフポートレートだ。それらは、見事に現在の日本の状況が反映されている。

本展は、かつてのように女性のジェンダー的なこだわりを中心に提示するのではなく、タイトルが示すように、日本を含む現在のアジアの、まとまりのない、ばらけた状況を提示する展示になっている。笠原氏のいままでの仕事の区切りとなる展覧会ともいえるだろう。

愛について
アジアン・コンテンポラリー
東京都写真美術館

http://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3096.html

写真展レビュー
立木義浩 写真展 Yesterdays
黒と白の狂詩曲(ラプソディ)
@シャネル・ネクサス・ホール

ⓒ  Yoshihiro Tatsuki

立木義浩(1937-)といえば、代表作は“舌出し天使”だろう。カメラ毎日の伝説の写真編集者・山岸章二氏が、1965年の同誌4月号の巻頭56ページに掲載した立木の伝説のデビュー作だ。
これは当時売り出し中の若手写真家立木による、一人のハーフ・モデルのスナップで構成された都市のファンタジー作品。同誌に掲載された草森紳一氏の解説には、“・・・・文明批評などと考えないでほしい。夢の観客であってほしい。立木義浩も夢の運転者であると同時に観客なのだ。この写真集の新しさはそこにある。これは従来の数々の主観写真、心象写真などとももちろん異なっている。彼は、写真が文学や絵画の弾力を受けないこと、つまり象徴におちいりがちなセンス(意味)と構図の魅惑を一応放棄したのだ”と書かれている。
草森氏の解説には、編集者の山岸氏の意図が反映していると思われる。これは、立木の写真は、当時のアート写真・広告写真のジャンルにとらわれない写真であり、言葉では表現できない時代の持つ気分や雰囲気を巧みに掬い取った作品という評価だろう。60年代の英国ロンドンのストリート発ファッション写真が意識されており、その日本版を意識したのでないかかと思う。

同作には当時の若い日本人男性があこがれていた、西洋的な顔立ちのハーフの女性がモデルとして採用されている。それは海外では、西洋文化の真似の表現のように写ったと思われる。西洋では各国の伝統文化の独自性を愛でる多文化主義の流れがある。残念ながら本作はその評価軸には乗ってこなかった。当時の日本は、まだアート系写真と商業写真が併存していた。私は、山岸氏は本作などを通して、欧米とは違う日本独自のアート写真の価値基準の提示を考えていたのではないかと想像している。
しかし、山岸氏は79年なくなってしまい、その後の日本の写真界はバブル経済に突入し、商業写真が席巻してしまう。多くの人が、膨大な予算を持つ商業写真の先に、自由なアート表現の可能性があると考えてしまったのだ。しかし、それは不況と共に夢と消えてしまう。その時に、商業写真に背を向け生き延びた数少ない写真家が、いま海外から多文化主義の見地からアート系作家として評価を受けているのが現状なのだ。

さて、日本では自らの作品メッセージを写真家自身が語らないときに、第3者による見立てが行われることになる。そして長年の創作の過程で、複数の人による見立ての積み重ねが行われ、ブランド構築につながる。
見立ては自分が持つ作品への感覚、つまり感じたことを言語化することではないと考える。内観は自分に嘘をつくと心理学では言われている。ここは見立ての理解の上で勘違いを生みやすい箇所だ。
さて当然のこととして、日本には長く活動を続けている写真家が数多くいる。その中にはテーマ性が見立てられる人がいる一方で、感覚的に好みが語られるだけの人がいる。その違いはどこから来るのだろうか。たぶん前者は、人間社会は幻想のようなものであるが、人間はそこで生きる以外の選択肢がないと諦観しているリアリストの人で、後者は自分の感覚を重視するロマンチスト的の人なのではないかと疑っている。両者の作品制作の姿勢も明らかに異なる。前者は、創作は多くの人とのコラボレーション的要素が強いと理解している。後者は自分のやりたいことだけを追求しがちになる。そして後者の中で、優れた時代感覚を持つ写真家は、単にフィーリング重視でスナップ撮影するだけではない、社会に横たわる気分や雰囲気が反映された広義のアート系ファッション写真的な作品を提示しているのだ。立木義浩の写真はこのカテゴリーに入り、シャネル・ネクサス・ホールはその視点から彼を評価したと私は考える。

それでは。今回の展示作品はどのように理解すればよいのか。プレスリリースには“日常のなかでふと眼にした光景にレンズを向けるスナップショットを軸に、4人の女性とのフォトセッションを交え、構成されている”と書かれている。詳しい撮影年などの記述はプレスリリースなどで発見できないが、現代の東京でモデルを使って撮影されたポートレート、風景などのスナップ作品のようだ。ほとんどがモノクロのスクエアーの作品、一部にタテ長のカラー作品が含まれる。
これは立木が21世紀の東京において、彼自身がパーソナルに感じている時代の気分と雰囲気を表現した作品なのだ。“舌出し天使”のDNAが確実に受け継がれていると理解できるだろう。しかし、現在は“舌出し天使”が発表された1965年とは社会状況が全く違う。このような写真は多くの人が共通の価値基準と、同じ将来の夢を持つような時代背景があって成立する。1965年はそのような時代だった。しかし90年代以降の、価値基準がばらけて多様化した。このような時代には、多くの人の共感するようなアート系ファッション写真は成立しにくくなる。このたび“舌出し天使”が再版されるという。若い時にこの時代を生きた団塊の世代が主要な顧客になるだろう。別の言い方をすると、“カッコイイ”の意味が時代によって変遷するということだ。

20世紀に活躍した写真家を、21世紀に紹介する場合、無理矢理に現代アート的なテーマ性をキュレーターや編集者が作品にくっつける場合がある。しかし写真家自らがテーマ性を紡ぎだしたのでないので、体裁を整えただけに見えて違和感を感じる場合が多い。立木はそのようなことはせずに、今回“舌出し天使”の2018年版と解釈できる作品を提示したのだ。
ただし、山岸が亡くなって以来、立木のような写真家の評価軸は誰からも明確に語られなくなった。特にいまの外国では彼らを評価する基準は存在しない。このたび世界的なブランドが運営するシャネル・ネクサス・ホールで立木の写真展が行われたことは重要だと思う。本展開催で日本の写真史の未開拓分野を暗に指摘したているといえるだろう。これがきっかけになって、国内外からの関心が集まり、日本独自のアート写真の論議が巻き起こることを期待したい。

立木義浩写真展
Yesterdays 黒と白の狂詩曲(ラプソディ)

会期:2018年9月1日~9月29日
会場:シャネル・ネクサス・ホール
東京都中央区銀座3-5-3 シャネル銀座ビルディング4階
開館時間:12:00~19:30 (9月14日 17:00まで)
休館日 :無休

https://chanelnexushall.jp/program/2018/yoshihiro_tatsuki/

写真展レビュー “TOPコレクション たのしむ、学ぶ 第2部 夢のかけら”
@東京都写真美術館

東京都写真美術館は、平成29年3月時点で約34,000点の作品・資料を収集しているという。本展は、2018年5月から行われている、同館コレクションを紹介する“TOPコレクション たのしむ、学ぶ”展の、第1部“イントゥ・ザ・ピクチャーズ”に続く、第2部の“夢のかけら”となる。今回の展示でも、日本人と外国人、有名と無名写真家、クラシック写真から現代写真、ゼラチン・シルバーのモノクロからカラーのダイトランスファー、大判から小さいサイズ、フォトグラムなどを含む多様な写真表現技法、ドキュメントから化学写真まで、多種多様な写真作品が、美術館が提示するテーマごとに組み合わされて展示されている。
ほとんどが、19~20世紀写真で現代アート系の写真の展示はない。ただし一部の日本人写真家の作品には現代アート的な大判サイズのものがある。

テーマは、“大人X子供+アソビ”、“なにかをみている”、“人と人をつなぐ”、“わからないことの楽しさ”、“ものがたる”、“時間を分割する/積み重ねる”、“シンプル・イズ・ビューティフル”、“時間の円環”など。そのなかに写真史上の名作がちりばめられている点も見どころになっている。
キュレーターの石田哲朗氏によると、この展示は同館の写真のスクールプログラムが発想の原点とのこと。子供に、“やわらか”、“のんびり”、“しずか”などの様々な感覚的なキーワード言葉を与えて、写真をグルーピングすることからヒントを得たとのこと。
オークションで高額に取引されている写真史上の巨匠の作品と、評価が定まっていない若手・現存写真家の作品が、多種多様なテーマごとに分類され同じ空間に展示されている。
たぶん欧米の美術館ならば、キュレーターがファイン・アート史上の新たな視点から作品を分類して展示されるだろう。本展では、被写体の種類/行為/関係性。見る側の感覚、印象、抽象的概念などで作品がグルーピングされている。いま欧米で主流の現代アートのテーマ性を重視する視点だけにとらわれず、写真による表現作品を自由に、より幅広く、かつ多様に紹介している。日本には多種多様な写真の評価軸が並存している。普段、それらは個別に独自の世界を形作っている。それぞれの価値観を取り去ってしまい、美術館空間に並列に放り込んで、全く別のキーワードで意味づけしての展示。まさに日本の写真界の現状の提示をテーマとした展覧会だと理解したい。全体の作品展示がシュールに感じるのは、戦後の日本文化が海外文化を取り込み極端に複雑化し、その結果として生まれた歴史にとらわれない自由な土壌が反映されているとも解釈できるだろう。
観客のほとんどの人は、正当なアートや写真の歴史を学ぶ機会は持たないだろう。そのような人が主要な観客であるならば、アートの歴史と関係づけられた専門的な視点でのキュレーションよりも、今回のような展示の方によりリアリティーを感じるのではないだろうか。上から目線が多い美術館展の中で、極めて観客視線の民主的な展覧会だと思う。
本展の第1部“イントゥ・ザ・ピクチャーズ”のメイン・ヴィジュアルに、ロベルト・ドアノーの“ピカソのパン,1952”が使用されていた。なんと同館のカフェ メゾン・イチでは、同作内のピカソの前に置かれたパンをイメージして焼き立てパンを手作りして販売していた。まさに全体の展示方針に符合したシュールな演出だったといえるだろう。個人的には、美術館は現在の日本の現状認識の提示を超えて、将来的にはその状況の理論化を行ってほしいと希望する。

前記のように、本展ではすべての写真が並列に並べられる中に意識的に名作が何気なくちりばめられている。それらは以下の作品だろう。

“パリ市庁舎前のキス”が表紙のロベール・ドアノーの写真集

キャプション番号
27.ジョセフ・クーデルカ“Rumania, 1968”、
83.ギャリー・ウィノグランド“Albuquerque, new Mexico, 1958”、
91.ダイアン・アーバス“A Widow in Her Bedroom, NYC, 1963”、
51.ロベ-ル・ドアノー“Kiss by the Hotel de Ville, 1950”(パリ市庁舎前のキス)、
52.ジュリア・マーガレット・キャメロン“The Kiss of Peace, 1908”、
123.ハロルド・ユージン・エジャートン“Milk Drop Coronet, 1957”
また、W.ユージン・スミスの“カントリー・ドクター”シリーズからの11点、瑛九の“フォトデッサン”シリーズの一連のフォトグラム作品なども一見の価値がある。
個人的には岩宮武二の“かたち”シリーズは、人の手により作られたか「ゆらぎ」のある構造物を撮影している点が興味深かった。
これら名作展示は特に特別扱いされていない、うっかりと見逃さないようにしてほしい。

さて、名作展示は本展ではどのような意味を持つのだろうか?名作とは、オークションなどのセカンダリー市場で高く資産価値が評価されている作品でもある。しかし本展タイトルが“たのしむ、まなぶ”が表すように、市場価値の高さは写真の価値基準の一部であってそれがすべてではないということだろう。最近の欧米市場で進行している、ブランド優先傾向への疑問符とも解釈できる。
いま特に20世紀写真では、名作に人気が集中してマネーゲーム化の兆候が見られる。有名写真家でも絵柄によっては人気が極端に二分化しているのだ。
また、アートで稼ぐ政府構想である“リーディング・ミュージアム”構造に対して。全国美術館会議が反対の姿勢を鮮明にしたという、朝日新聞の記事(2018年8月3日付)も思い起こさせた。

このような展示はキュレーションする側の個性がかなり明確に表れるだろう。たぶんすでに検討しているだろうが、今後は、美術館員だけではなく、複数の写真家や各分野のアーティストがそれぞれのキーワードを選んで、TOPコレクションから写真作品を選ばせたら興味深い展示になるのではないだろうか。キュレーションした人の世界観が反映された展示になれば、それはコレクションを利用した新たなアート表現にもなるだろう。ただし、美術館による全体のキュレーション、つまり選出者選びは非常に重要になる。複数の価値基準が併存する日本の写真界の現状をできるだけニュートラルに提示することに重点を置くべきでだと考える。知名度や人気度だけで人選しないようにしてほしい。

“TOPコレクション たのしむ、まなぶ 夢のかけら”
東京都写真美術館
開催情報
8月11日(土祝)~11月4日(日)
10:00~18:00、木金は20:00まで
ただし、8/30, 8/31は21:00まで
入館は閉館30分前まで
休館日 毎週月曜日
入場料 一般500円、学生400円、中高生・65歳以上250円
http://topmuseum.jp/

写真展レビュー
杉浦邦恵 うつくしい実験 ニューヨークとの50年
@東京都写真美術館

杉浦邦恵(1942-)は、現在ニューヨーク在住の愛知県名古屋市出身のアーティト。お茶の水女子大で物理学科で学んでいたが、将来は教師になるしか道がないと悟り、アート方面にキャリア転換をはかる。
1963年、20歳の時に単身渡米。シカゴ・アート・インスティチュートに入学し、写真でのファインアート制作を学ぶ。1967年に拠点をニューヨークに移し、その後は様々な写真表現の可能性を探求。初期の魚眼レンズによるイメージの歪みの取り込み、人物や風景のモンタージュ、モノクロとカラー・ネガの使用、最も長く続けているカメラを使用しない写真表現のソラリゼーション、感光材を塗ったキャンバスへのプリント作品の制作、最新作では再び最新デジタル技術を使用してキャンバス作品を制作している。

本展は彼女のキャリアを5つのパートで紹介する回顧展となっている。
・パート1:”弧(Cko)”(1966-67年)、
シカゴ・アート・インスティチュートの学生時代にビル・ブラントの作品をヒントに制作した実験的手法の作品
・パート2:フォトカンヴァス(1969-1971年)、写真-絵画(1876-1981年)、フォトコラージュ(1876-1981年)
・パート3:フォトグラムとレントゲン写真のインスタレーション(1980年-)
・パート4:アーティスト、科学者、親愛な(1999年-)、
篠原有司男との出会いから始まった草間彌生、村上隆、蔡國強などのポートレートシリーズ
・パート5:DGフォトカンヴァス、(2009年-)、
2016年からは日本で撮影されたデジタルプリントによる最新作。

キュレーターの鈴木佳子氏はカタログの解説で杉浦の創作を以下のように分析している。
“杉浦は写真に絵画的表現や絵そのものとの組み合わせによって、写真の可能性を広げていく。彼女独自の方法を模索し、脱皮をしていくように次々に新たな手法を生み出し、同じ表現形式に留まることはない”。

この写真へのアプローチ自体は、カメラや撮影テクニックを通して、現実世界に存在する多様なフォルムやシーンを発見して自由に表現する20世紀中盤にドイツから起きたサブジェクティブ・フォトグラフィーに近いようでもある。
彼女が学んだシカゴ・アート・インスティチュートは、ドイツのバウハウス出身のラースロー・モホイ=ナジの創作理念を受け継いでいるイリノイ工科大学が近いことからことから影響があるのは当然だろう。
写真史的には、戦前に米国で写真を学び、その後は写真表現での様々な実験を試み、抽象的な作品“What I’m doing”シリーズを制作し、“写真としてのアート”の可能性に挑戦した山沢栄子(1899-1955)の流れの写真家だともいえると思う。

杉浦はキャリアを通して写真表現の限界を拡大しようと挑戦してきた。しかし彼女の作品は、文脈の中でテーマ性を提示するというより、方法論の追求が優先されている印象が強い。インタビューでも、“自分はプロセスを通じて新しい作品をつくることに興味がある”と語っている。
サブジェクティブ・フォトグラフィーに近いとも指摘したが、その要諦は、写真家が発見した世界の事象に対する解釈や視点を、写真テクニックを駆使して表現することだ。しかし彼女の作品からはこの世界の解釈の部分がいまひとつ見えてこない。現代アート系の人からは、方法論が目的化しているというようなツッコミが入るかもしれない。しかし、科学的な要素が強いアナログ写真の時代に、女性アーティストが50年以上に渡り創作を継続するのは並大抵のことではない。仮に方法論の目的化といわれても、それ自体が50年という十分に長いキャリアを通して行われたのならば、十分に作品テーマに純化しているともいえよう。その業績を東京都写真美術館が作家性として見立てたのだ。

私が興味を持ったのは、何が杉浦の50年間の創作活動継続のモーティベーションになったのかだ。キャリアを見て気付いたのは、若い時から彼女には多くの優れたメンター(指導者/助言者)がいたことだ。それは支援が必要な人に対して指導や助言をする人のことを意味する。仕事面から精神面まで支援するメンターは、日本語の指導者とはややニュアンスが違うが、ここでは指導者としておこう。
私は、キャリアを通して指導者たちの存在が杉浦のキャリア継続を支えてきたのだと考える。米国の教育心理学者ベンジャミン=ブルームの1985年の著書「Developing talent in young people」によると、音楽家、芸術家、数学者、神経学者など世界的に活躍する著名な人々を詳しく調査したが、IQと成功達成には全く相関がない。しかし若い時から優れた指導者について努力を重ねている、という。
なぜアーティストに指導者が必要なのか。彼らは自らを客観視することで創作のアイデアを捻りだす。一人でいくら努力しても自分の枠の中でぐるぐる回るだけになりがちだ。その枠の存在を指導者が気付かせてくれる。またオリジナリティーが認められるまでには厳しい修業が必要だろう。だいたい修業とは数々の失敗を乗り越えていくこと。その道の先輩である指導者はすでに同じ失敗を経験したり、見聞きしている可能性は高いだろう。彼らのアドバイスにより無駄な失敗を避けることができるかもしれない。また複数の指導者とのかかわりも重要だ。指導者が一人だと、言われたとおりに行動したり、指導者の創作をまねをしたりすることがある。複数の人がいることで創作スタイルや方法が多様に展開していくのだ。
またアーティストとしての評価を受けるために業界の重鎮である指導者の支援が欠かせない。指導者も自らの実績のために弟子を育てたいのが本音だろう。彼らからのアート業界への紹介や推薦は若いアーティストが注目されるきっかけになる。いくら自分に才能があると思っていても、誰かが認めない限り、それは独りよがりでしかない。
杉浦の指導者は、シカゴ・アート・インスティチュートでの指導教官だったハリー・キャラハン、アーロン・シスキンやケネス・ジョセフソン。ニューヨーク時代は、ジェーコム・デシン、アートディーラー/批評家ディック・ベラミー、個展を何回も開催しているレスリー・トンコノウ、日本ではツァイト・フォトの石原悦郎、鎌倉画廊の中村路子などだ。同じギャラリーで数多くの個展を開催しているのは、ギャラリストとアーティストとのコミュニケーションが極めて良好だった証拠だろう。杉浦が素晴らしい人たちと関係が持てたのは、彼女の優れた人間力があったからだろう。これは私の想像なのだが、彼女は見栄やプライドなどもたずに自分をオープンにできたからこそ多くの人から受け入れられたのではないだろうか。

また杉浦が美術手帳へニューヨーク・アート・シーンの記事を“海外ニュース(NY)”で寄稿していたことにも注目したい。彼女は、1986年~2008年まで約20年間以上にわたり、展覧会などの取材や写真撮影を行い現地レポートを書いていた。年齢的には44歳から66歳まで、まさにアーティスト・キャリアのなかで肉体と気力が最も充実する重要期に当たる。レビューの総数は約400本以上にのぼるとのことだ。ちなみにカタログにエッセーを寄せている美術批評家の椹木野衣氏は、編集者時代に杉浦を担当していた時期があったそうだ。

この仕事が彼女のキャリア形成と創作継続に非常に大きな影響を与えたのではないかと考える。アーティストはだいたいが創作途中でマンネリに陥る。そこから脱出できないで消えていく人が無数にいる。前にも指摘したように、自分の狭い創作世界に囚われてしまい、新たな展開ができなくなるのだ。そのようなときに有効なのが、指導者のアドバイスとともに、自分以外の優れた表現に触れて刺激を受けること。それが自らを客観視するきっかけを作り、マンネリ脱出の突破口につながるのだ。だが、アーティストはなかなか自分以外の、特に成功している表現者の作品を見に行かない。しかし、杉浦は雑誌の連載の仕事なので、自分の好みや感情と関係なく、否応なしにアートシーンの最前線で活躍する幅広い人の作品を取材しなければならなかったのだ。彼女は、おのずと刺激を受けるとともに、自らのアート表現のデータベースの情報量が増えていったと思われる。
創作は過去の先人たちのアート表現を新たにかけ合わせたり、それらを突然変異させることで生まれてくる。当然のこととして、杉浦の持つ圧倒的な情報量は、新たな発想を生み出す際に役立ったはずだ。また自分より優れた能力を持つ人とも数多く接することになる。そのために、自信過剰になることもなく、新しい視点を柔軟に受け入れる姿勢が維持できたと想像できる。杉浦は、指導者に恵まれたこと、それに続く美術手帳の仕事により、長きにわたり創作キャリアを継続できたのではないだろうか。

本展“杉浦邦恵 うつくしい実験 ニューヨークとの50年”は、国内外の美術館による初めての回顧展になるという。彼女の仕事の全貌が初めて明らかになったことで、写真史やアート史とのかかわりが新たな視点から専門家により見立てられる可能性がでてきたでてきたのではないか。特に現代アート系で、生き物を使用したフォトグラム作品があるアダム・フスや、巨大な抽象作品で写真メディアの探求を続けているウォルフガング・ティルマンスとの関連が語られると、再評価がさらに行われると考える。

〇開催情報
“杉浦邦恵 うつくしい実験 ニューヨークとの50年”
東京都写真美術館
7月24日(火)~9月24日(月振休)
10:00~18:00、木金は20:00まで (7/26~8/31の木金は21:00まで)
休館日 毎週月曜日、ただし、9/17, 9/24は開館、9/18は休館

http://topmuseum.jp/

写真展レビュー
内藤正敏 異界出現
@東京都写真美術館

TOP MUSEUM 展覧会カタログ

東京都写真美術館は、写真史であまり注目されていないが、独自の視点持ち長年にわたり真摯に作家活動をしている人を取り上げ再評価している。”内藤正敏 異界出現”もそのような展覧会だといえよう。

私は日本写真が専門でないので、内藤正敏の仕事はほとんど知らなかった。海外で評価されているフォトブックから日本人写真家の仕事に触れる機会が多いのだが、彼の写真集は海外ではほとんど紹介されていない。
“日本写真家辞典”(2000年、淡交社刊)には入っているが、2014年に行われた”フジフイルム・フォトコレクション展”でも、日本の写真史を飾った101人には選出されていない。写真家よりも民俗学の研究者としてより知られているようだ。

内藤の作品シリーズの展開は極めてユニークだ。展覧会資料によると、彼は60年代の初期作品において、化学反応で生まれる現象を接写して生命の起源や宇宙生成を意識したシュールでサイケデリックな”SF写真”と呼ばれるヴィジュアルを制作。また、早川書房”ハヤカワ・SFシリーズ”のカヴァーのヴィジュアルを手掛けている。(会場で現物が展示されている)
しかし、山形県の湯殿山麓で即身仏との出会い、写真撮影したことをきっかけに民族学研究に取り組むようになる。即身仏とは厳しい修行を行い、自らの肉体をミイラにして残した行者のこと。その後は、民族学的な興味から、主に東北地方の民間信仰をテーマにした、”婆 バクハツ!”、”遠野物語”など発表している。
境界線を都市や日本の伝統文化の中に探し求め、”東京-都市の闇を幻視する”では、正常と狂気、平穏な生活の中で断片的に裂け目として出現するダークサイドの視覚化を行っている。彼は今は忘れ去られている日本文化の奥底に潜む思想を発見してきたのだ。
90年代には、それらを発展させて修験道の霊山における空間思想を解読する”神々の異界”を手掛けている。本展カタログでキュレーターの石田哲朗氏は”このシリーズで内藤は山々の隠された「空間思想」を民俗学で解読して、その成果に基づいて場所とカメラの方向を定め、撮影している。この方法を彼は「人間が一方的に自然を写すにネイチャーフォトとは逆の視線」と呼ぶ”と解説している。
富士山八合目の烏帽子岩付近から東京方面を撮影している”富士山、1992″(プレート166)がある。ここは食行身禄(じきぎょうみろく)という行者が、徳川幕府の政治に抗議して断食死した場所という。これがきっかけで、江戸で富士山を信仰する富士講ブームが起きた。同作はその身禄が視たであろう風景を写真で撮影して再現したものなのだ。同シリーズでは、空海、修験者、時の権力者が創出した異界を読み解きながら、石鎚山、室戸岬、月山、羽黒山、岩木山など日本各地で撮影が行われている。

それでは、内藤の意味する異界とは何を意味するのだろうか。”日本「異界」発見”(1998年、JTB出版刊)のあとがきには”私の旅の目的は、「異界」から現実を逆噴射すること。異界というと、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するおどろおどろしい世界を思いうかべがちだが、私の求める異界とは、そんな神秘主義来なものではない。人間が想像力で生み出した非日常的な世界を言う、異界を通して眺めると、忘れられた深層の歴史や人間の心の奥底が視えてくる”と書いている。

世の中には客観的な現実などは存在しない。それぞれの人が自分のフレームワークを通してみた見た現実が存在するだけだ。現実だと思える世界は社会の共同幻想に支えられて存在している。内藤は上記のあとがきに”日本人は、「この世の」のほかに、もう一つの幻の国、”異界”があると信じて生きてきたのではなかろうか”と書いている。社会を生きていると様々な辛いことがある。目の前の世界を盲信して埋没していると押しつぶられそうになる。生き残るためには、時に自らを客観視し枯渇した精神エネルギーを再注入しないといけない。一般民衆は悟りを開いた高僧ではない。古来から彼らを精神的に支えていたのが、内藤のいう”異界”だったのではないだろうか。念仏を唱えることで自分を無にするという庶民の知恵と同じく、異界を意識することで思い込みにとらわれる自分に気づくきっかけになったのだ。本展は、かつて日本の歴史上に様々な形で存在していた異界を写真作品として蘇らせている展示ともいえよう。

私が特に興味を持ったのは、内藤と民俗学とのかかわりだ。カタログ157ページで引用されている本人のエッセーに以下のような記述がある。
“写真家がカメラを肉体化し、身体感覚で科学を超えるとき、もう一つの写真の世界が出現する。優れた写真は人間の「感性」を刺激し、写真に呼び覚まされた感性は、人間の奥底に眠る「知」をたたく。私の場合、それがたまたま民俗学だったというわけだ”
世界的にアート写真市場で評価されている日本の写真家は、最初に作品の内包する問題点を意識していることは少なく、写真撮影の長い期間の継続があって、テーマ性が第3者に見立てられる場合が多い。上記の記述はその過程を見事に文章で表現されている。内藤がその他と決定的に違うのは、自らが写真撮影を通して作品のテーマ性に気づいたことだろう。そして、今度はテーマ性を意識して写真撮影を継続している。
もう気付いた人も多くいるだろうが、今まで述べてきたことは現代アート系写真作品の制作アプロ―チそのものなのだ。しかし、それは現代では忘れ去られている、きわめてディープな日本的な内容だけに、表層的な多文化主義の視点から評価する西洋の写真史家は気付かなかったと思われる。

大判シートによる最後のパートの作品展示は圧巻だ。彼が東北芸術工科大学にいた2004年にキャリアを振り返る”内藤正敏の軌跡”に出品された作品群が新たな視点で再構成された展示になる。大型インクジェットプリンターで制作された長編約1.5メートルもの巨大作品群だ。解説によると”内藤の世界観を表す一つのインスタレーション表現であるとみなし、今回新たな構成によって、この体感的な展示を再現、<コアセルベーション>を含む初期作と<出羽三山>を組み合わせた”(カタログ・163ページ)という。彼のキャリア全貌を明らかにする大規模な展示だ。内藤がどのように宇宙や世界を認識していたかが直感的に感じられる。それをコンセプトと呼ぶのなら、内藤は現代アート的な視点を持っていた20世紀写真家として再評価されるべきだろう。

キュレーターの石田哲朗氏によると、内藤は心眼で作品に触れてほしいとのことで、会場内の撮影を不許可にしたという。写真撮影はデジタル化で物事の表層だけを瞬間的にとらえ、メモをとるような安易な行為になってしまった。メモは多くの場合見返されることはない。現代生活で写真撮影が民主化したことで、人間はますます本来持っている思考システムを使わなくなった。撮影不許可は、意識的に世界と対峙しなくなった現代人への写真家からの警告なのだ。それは内藤の作品コンセプトの一部なのだと受け取りたい。

“内藤正敏 異界出現”は、一貫したテーマ性を持つ、現代アート系アーティストによる展覧会になっている。アート史で過小評価されているアーティストに注目するのが公共美術館の重要な役割といえるだろう。私はこれこそは、美術館による写真作品の”テーマ性の見立て”だと理解している。本展の開催は東京都写真美術館の大きな業績だと評価したい。
内藤作品は、実際に写真を見て、さらに文脈を読み解こうと努力するとその良さがわかってくる。”異界”などとついたタイトルに、アート系に興味ある人はやや引いてしまうかもしれない。しかし、本展はアート好きな人にこそ、先入観を持たずに見てもらいたい展覧会だ。

(展覧会情報)

内藤正敏 異界出現
Naito Masatoshi: Another World Unveiled

会期:2018年5月12日-7月16日
会場:東京都写真美術館
開館時間:10:00~18:00(木金 20:00)
※入館は閉館の30分前まで
休館日:月(7月16日は開館)
料金:一般 700円 / 学生 600円 / 中高生・65歳以上 500円
小学生以下無料

https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3052.html

 

 

写真展レビュー
鋤田正義写真展「ただいま。」
@直方谷尾美術館

写真家の鋤田正義は、福岡県直方市古町で生まれ、幼少時代を同地で過ごしている。今年80歳を迎えるにあたり、本人の強い希望に地元の有志が賛同して直方谷尾美術館美術館での「ただいま。」展が実現した。

直方谷尾美術館

写真展実行委員会のウェブサイトには”この写真展は営利が目的の商業的なものではなく、「生まれ故郷で写真展をしたい」という氏の個人的な思いと、氏の成功体験をモデルケースに夢の実現を青少年に身近に感じ取ってもらいたいという地域の強い意思によって企画されたものです”。また”鋤田氏の存在を地元の人にもっと知ってもらいたい!”、”鋤田氏の生き方を通して、特に若い人には「夢を諦めない」「諦めない行動が夢を現実にしてくれる」ことを感じ取ってもらいたい!”と開催趣旨が記述されている。

本展は単に写真家の過去の一連の作品を見せるのではない、明確な開催意図がある回顧展なのだ。
鋤田がまだ学生だった1956年ごろに直方市周辺で撮影された、静物、ポートレート、風景、スナップ、自画像から、デヴィッド・ボウイ、マーク・ボラン、イギーポップ、YMOなどの代表的なミュージシャンのポートレート、広告・ファッション写真、ライフワークの風景のパーソナル・ワークなどの作品群がカテゴリーごとに分けられて展示されている。

直方谷尾美術館

なお展示のディレクションは、これも直方市出身の画家上川伸氏が担当したとのことだ。美術館の別スペースでは同氏の絵画も展示されていた。

大小さまざまサイズの作品とともに、200㎝を超えるような超巨大な作品も散見される。総展示数は膨大で、すべてが新たに制作されたものではないと思われるが、かなりの作品制作費、輸送費、会場費などの開催コストがかかったと思われる。
本展は、鋤田をリスペクトする地元の人々の多大な人的協力と、プロジェクトに共感した人々からの寄付型のクラウドファンディングで実現したという。作品の設営も実行委員会の人たちが協力して行ったという手作り感が溢れる写真展になっている。
額装とパネル貼りによる作品展示は、すべてが美術館レベルのオリジナル・プリントのクオリティーとは呼べないかもしれない。しかし高い壁面を有効に利用した様々なサイズの作品の取り合わせによるカテゴリー別の作品配置は一瞬雑然としていると感じないではないが、微妙にバランスが保たれていて違和感はない。
また会場全体で見ると、それぞれの壁面が見事にコーディネートされている。画家の上川氏は、写真による大きな会場の空間構成を行う高い能力を持っているのだろう。東京などでみられる、アート・ディレクターがデザインしてレイアウトされた会場とは一線を画している。それらは時に写真家よりも、デザイナーの意図が優先され、隙のない展示自体が目的化している。広告やファッション系の写真家の写真展でよく見られる展示だ。

また本展は鋤田正義本人の地元への思いが感じられる会場空間になっている。まず作品展示は直方で撮影された高校時代の写真から始まる。この導入部分で地元の人たちは鋤田の写真に親近感やリアリティーを感じるだろう。そして広告・ファッションの最前線で活躍したときの作品、世界的なミュージシャンのポートレート、パーソナルワークが並ぶ。

直方市は大相撲で活躍した魁皇の出身地。駅前には銅像が建っている。同展をきっかけに、地元の人たちはアート・文化界でも高い功績をあげた写真家の存在を知り誇りに思うだろう。また開催趣旨である、地元の青少年に将来の夢を与える構成になっているのだ。
主催者と写真家の、来場者へのメッセージと思いが会場全体に見事に反映されている。鋤田・上川両氏と実行員会は事前に相当話し合ったのではないか。

東京にいる鋤田ファンはぜひ東京に巡回してほしいと願うだろう。しかし本展は大都市に巡回することを意識して企画されたわけではない。写真家の地元の直方市で開催され、地元の人たちに見てもらうことを意図しているのだ。鋤田本人が九州各地の巡回を希望しているのは、その開催趣旨によるところだろう。

同展は直方谷尾美術館の観客動員数の記録を更新する勢いだという。私が訪れたのは雨が降る肌寒い平日だった。地元のアーケードは閑散としていたのだが、美術館内は地元の人で一杯だった。鋤田、主催者、観客とのコミュニケーションが間違いなく成立していると感じた。

会期は5月20日まで。直方市は博多、小倉から電車で約1時間くらい。お土産は名物の成金饅頭がおススメだ。

(開催情報)

鋤田正義写真展「ただいま。」
直方谷尾美術館
4月3日(火)~5月20日(日)※毎週月曜日休館
一般400円(240円)、高大生200円(120円)、中学生以下無料

http://www.sukita.photo/

写真展レビュー サラ・ムーン「巡りゆく日々」 銀座 シャネル・ネクサス・ホール

Femme voilée ⓒ Sarah Moon

フランスのファッション写真家、映像作家としても知られるサラ・ムーン(1941-)の「D’un jour a l’autre 巡りゆく日々」展が、5月4日(金)まで銀座のシャネル・ネクサス・ホールで開催されている。

本展ではサラ・ムーン自身が構成を手掛け、日本初公開作・新作を含む1989-2017年に撮影された約100点が展示されている。日本での本格展示は、2016年4月に何必館 京都現代美術館で開催された「Sarah Moon 12345」展以来となる。

アーティスト活動を行うファッション写真家のキャリア回顧は非常に難しい。同じファッション系写真でも、時代性が反映されたアート性が高いものと、単に洋服の情報を提供しているものが混在しているからだ。後者の写真の展示だと、写真家の創作ではなくファッションを撮影した仕事の紹介になってしまう。これは、写真展、フォトブックでも同様となる。彼らはお金を稼ぐので、キャリアを記念碑的に振り返る豪華本を制作したり、豪勢な展覧会を開催したりする。これは展覧会や写真集を通しての仕事関係者へアピール的な要素が強くなる。広告と同様にアート・ディレクターが企画を行い、写真家の営業活動の一環として行われる。したがってこのような展示や写真集は、シリアスなアートファンや評論家にはなかなか評価されない。まして写真家作品の市場価値には何も影響を与えないのだ。
現在でもこのような種類の写真展が圧倒的に多い。しかしその中にファッション写真が成立していた時代の気分や雰囲気を表現したものも存在している。長い過小評価や無視の時代が続いたが、いまでは優れたファッション写真はアートのカテゴリの一部だと考えられるようになった。キュレーターやギャラリストは理論武装したうえで、その違いを見つけ出して、両者を明確に区別している。

今回のサラ・ムーン写真展”巡りゆく日々”は、そのタイトルが示唆しているように本人の回顧写真展的な性格が強い。しかし、決して過去のファッション写真の紹介に陥ることなく、パーソナルな視点で自らの表現者のキャリアを振り返ることに見事に成功している。過去の代表作の年代順展示ではなく、自らの手による作品セレクション、展示ディレクションが大きな特徴だろう。過去の作品をベースに、全く新しい世界を作り上げているのだ。頭のなかで過去と現在が行き来して、様々な思いが交錯するような状況を展示で表現しようとしている。

展示は大きく5つのパートで構成されている。それぞれに特に明確なテーマは提示されていない。誰の人生においても、何らかの強い思い出があり、その前後の様々な意識や感情が連なって記憶として存在しているだろう。記憶はずっと継続して存在しているというよりも、時々のライフイベントが中心になって断片的な連なりとして点在しているのではないか。本展でサラ ムーンは、自分の頭と心の中に去来してまた消えていく記憶の連なりに思いをはせ、それらを振り返り、再び現実に戻る行為を繰り返し行っている。長年連れ添ったご主人で編集者のロベール・デルピール氏が2017年9月に亡くなったことも作品セレクションに影響を与えていると思われる。すべてのパートごとに、過去の写真と最近の写真が混在している。それゆえ1点の写真は特にインパクトが強いものである必要はない。今回の展示ではアイコン的なファッション写真はほとんど登場しない。結果的にファッション写真も、ポートレート、旅行、風景、静物などの写真と共に彼女の人生の一部として並列に登場してくる。
一見、日本で好まれるフィーリングの連なりのような写真展示ととらえられがちだ。しかしすべての背景に、ファッション写真制作のベースとなる時代認識が存在している。それが自分の人生と関連付けられ、ヴィジュアルのリズム・流れや作品フォーマットが決められているのだ。言い方を変えると、彼女がファッション写真家として人生体験を通して記憶化されたもの、頭の中で意識に上った気づき、考えが、展覧会の3次元時間軸のなかで写真を通して再構築されている。映像作家でもある、サラ・ムーンらしい展示といえるだろう。

このアプローチは、やや写真のカテゴリーは違うがドイツ人写真家のマイケル・シュミットに近く感じる。また、サラ ムーンが影響を受けたかは定かでないが、ロバート・フランクが近年になって続けている、”Tal Uf Tal Ab”(2010年刊)、”You Would” (2012年刊)などのヴィジュアル・ダイアリー・シリーズも彷彿させる。彼は同シリーズで、過去が現在にどのように影響を与え、またどのように人生がフォトブック形式で記述可能で、形作られるかの提示に挑戦し続けている。もしかしたら彼女が本展で提示している時代性に共感を持てない若い層の人もいるかもしれない。

ファッション写真は、それが成立した時代に、共通の価値基準が存在していることで共感を生む。彼女が活躍していた80~90年代前半くらいまでには多くの人が似通った夢や未来像を持っていた。彼女はそれを感じ取り巧みに作品に反映させてきた。これがファッション写真家のサラムーンの真骨頂なのだ。しかし、2000年以降は価値観が細かくばらけてしまい、多くの人が共感するファッション写真はもはや成立し得ない状況になった。本展を見て、共感するのはかつての時代を経験した人、共感しない人は、当時を知らない人ということになるだろう。

本展では2000年以降の作品が多数含まれ、それ以前の時代の強い共通の価値観が薄められている。それは、ファッション写真でのアート表現の現状を的確に提示しているともいえるだろう。価値観が多様化したことでファッションのアイコン的な作品が生まれにくい状況になっているのだ。本展では、21世紀のアート系ファッション写真が、展覧会やフォトブックを通して、パーソナルな文脈から提示される可能性があると感じた。

写真展タイトル:「D’un jour a l’autre 巡りゆく日々」
会期:2018年4月4日(水)~5月4日(金)
会場:シャネル・ネクサス・ホール(東京都)
オープン時間:12:00~19:30

http://chanelnexushall.jp/program/2018/dun-jour-a-lautre/