嶋田 忠    野生の瞬間
華麗なる鳥の世界
@東京都写真美術館

嶋田 忠(1942-)は、カワセミ類を中心に、鳥獣専門として国際的にも高く評価されている自然写真家。埼玉県生まれだが、1980年以降は北海道を拠点に、いまでも第一線で国内外の自然写真を撮影している。

嶋田 忠”オウゴンフウチョウモドキ、2008年”

本展では約179点を展示し、彼の約40年にも及ぶキャリアを回顧するとともに、「世界最古の熱帯雨林」と言われているニューギニア島で撮影された貴重な野生動物の作品を初紹介している。
展示構成は、以下の通りとなる。
I. ふるさと・武蔵野 思い出の鳥たち 1971-79、
II. 鳥のいる風景・北海道 1980-2017、
III. 赤と黒の世界 1981-87、
IV. 白の世界 2009-14, 2010-17、
V. 緑の世界2000-18

“シマエナガ”

嶋田の写真撮影の流儀は、人と同じことはしない、人と同じ場所では撮影しないこと。誰も見たことのない鳥を撮るには、人がいない自然環境の中での撮影が必要となる。ときに厳しい天候や野生動物の脅威に身をさらすことになる。北海道や、熱帯雨林での撮影では、常に緊張感をもって覚悟を決めて撮影に臨むという。
嶋田によると作品制作では現場の事前観察が70%を占めるという。カメラでの撮影は一連の過程の最後の仕上げとのこと。「日本一シャツターを切らない写真家ではないか」と自身を評している。撮影の失敗はほとんどないという、徹底的に観察し、データを収集して、様々な状況を想定して、複数の撮影プランを構築する。こだわりを持たずに、上手くいかないとすぐに諦めて、次のプランの実行に移るとのこと。鳥からは約10メートルの距離で撮影する。すべて自らが隠れる場所を事前に作り込み、1週間くらい自然の中に放置しておくという。そうすると鳥も写真家の隠れ場所を意識しなくなるのだ。

“オジロオナガフウチョウ オス”

まるで、ドキュメンタリー写真家のユージン・スミスのようだと直感した。彼は最初からカメラを被写体に向けることなく、まず行動を共にする。相手が写真家とカメラを意識しなくなり、自然な態度や表情になった時に撮影するのだ。またユージン・スミスを敬愛するテリー・オニールがフランク・シナトラを撮影した時のエピソードも思い出した。彼もシナトラと行動をずっと共にするとともに、時にカーテンなどに隠れて自然な表情を切り取ったという。嶋田はまさに自然環境の中で鳥という被写体相手に完璧なドキュメントを目指しているのだ。ただ鳥を運任せに超望遠レンズを駆使して連写するのではない。自然環境にいるそのままの鳥の姿を、その羽毛の質感までもを忠実に表現しようとしている。彼の鳥の写真は非常に高いレベルの職人技にまで高められているといえよう。また写真撮影の一連の過程が一種のパフォーマンスのような自己表現にさえなっていると感じる。

Terri Weifenbach “Des oiseaux”(Editions Xavier Barral Paris、2019年刊)

ファインアート系分野の写真家は、鳥自体を撮影することはない。何らかの感動があって、それを表現する中に鳥が写されている。自然が作品テーマに関わるときには鳥が写っている場合が多い。たとえば、パリ在住の米国人写真家テリ・ワイフェンバックは、自然風景や植物を撮影対象として作品制作をしている。そこに鳥が含まれていることがある。身の回りの何気ない自然風景でも決して静止しているのではなく、風や昆虫、鳥たちの動き、光の変化で、まるで万華鏡のように常に変化している様子を、ピンボケ画面にシャープにピントがあった部分が存在する、瞑想感漂うイメージ表現している。最新刊の写真集“Des oiseaux” (Editions Xavier Barral Paris、2019年刊)では、彼女のかつてワシントンD.C.の自宅周辺で、移り変わる四季の自然風景の一部として鳥が撮影されている。

深瀬昌久の「烏」(蒼穹社、1986年刊)は、国内外で高く評価されているフォトブック。烏を不吉な存在の象徴として、戦後の工業化によりもたらされた、非人間的、環境が汚染された環境における、パーソナルな絶望を本の中で表現したと評価されている。金子隆一は、“日本写真集史 1956-1986(赤々舎、2009年刊)”で、「烏は、深瀬自身の孤独の化身である。そして写真集の最後に登場するホームレスの写真が、このシリーズのテーマを物語っている。それは社会に存在しながらも片隅でしか生きられない、人の眼に触れない存在の象徴として表されているのだ」と同書を評している。

写真には価値基準が異なる様々な分野が存在している。どの分野の写真でも、その最先端の仕事を行っている人は、アプローチは違えども、非常に高い強度を持って、また覚悟を持って被写体に接している。その姿勢には、アートの基本である何らかの感動を見る側に伝えるという作家性が意識的/無意識的に滲み出ている。ファインアート系には、それを評価する基本的な方法論が存在する。従来、その範疇だと考えられていなかった分野で活躍する写真家の作品でも、誰かがその作家性を見立てて、アート系の方法論の中での存在意義が語られれば、アート作品だと認知されるようになる。

かつてはアート性が低くみられたドキュメント、ファッション、ポートレート。いまやその中にも優れたファインアート系作品が含まれることは広く認知されている。それは本展のような自然写真の最前線で40年以上に渡り活躍している写真家の作品にも当てはまるだろう。
東京都写真美術館は今回の展覧会開催で、嶋田忠の作家性の「見立て」の第1歩を踏み出したと解釈したい。本展カタログに掲載されている学芸員関次和子氏のエッセーでは、「嶋田が作品集を制作するプロセスは、テーマやタイトルが決まると。ストーリーを考え、大量の絵コンテを描き、撮影の構図が確定すると、最後に写真撮影に取り掛かるというもので、それは現在でも変わっていない。この手法は人から学んだのではなく、自らで編み出したもので、映画製作の意プロセスに似ている」と記している。重要なのは、上記の嶋田のテーマが、いまという時代の中でどのように存在意義が語られるかだろう。
本展カタログの樋口広芳東京大学名誉教授のエッセーでは、「身近な鳥の世界を気軽に撮影することの楽しみが、多くの人に広がっていくことも、とても素晴らしいことだ。野生の鳥の世界の観察や撮影を通じて自然を愛し、理解する人の数が増えれば、今日急速に失われつつある自然環境の保全ももっと進みやすくなるに違いない」と書いている。たぶん、いま世界的に叫ばれている地球環境保護との関連や、自然の撮影と個人的生き方との関連などの見立てが可能だと思う。
本展がきっかけとなり、嶋田の作品性の評価が多方面から行われることに期待したい。

嶋田 忠 野生の瞬間 華麗なる鳥の世界
東京都写真美術館
7月23日(火)~9月23日(月・祝)10:00~18:00、
木/金は20:00まで(7/25-8/30の木金は21:00まで)
入館は閉館の30分前まで
休館日 毎週月曜日

写真展レビュー
宮本隆司 いまだ見えざるところ
@東京都写真美術館

宮本隆司(1947-)は、建築写真を通しての都市の変容、崩壊、再生などのドキュメントで知られる写真家。建築解体現場を撮影した「建築の黙示録」(1986年)、香港の高層スラムを撮った「九龍城砦」(1988年)などが評価され、1989年に第14回木村伊兵衛賞を受賞している。1996年に、第6回ヴェネツィア・ビエンナーレ建築展に参加し、阪神淡路大震災により破壊された建築物の作品で金獅子賞を受章。2004年には世田谷美術館で「宮本隆司写真展」を開催。2005年、第55回芸術選奨文部科学大臣賞、2012年、紫綬褒章を受章している。2001~2005年、京都造形芸術大学教授、2005~2017年、神戸芸術工科大学教授を歴任、着実にキャリアを積み重ねている写真家だ。

本展では、会場後半の約半分の大きなスペースで、自らの出身地の奄美群島の徳之島で撮影された「シマというところ」、「ソテツ」、「面縄ピンホール2013」を展示。入口から続く前半の展示では、ネパールの標高3,789メートルの辺境地にある城壁都市を撮影した「ロー・マンタン1996」、アジアのマーケットを撮影した「東方の市」、いま東京都写真美術館の建っている旧サッポロビール恵比寿工場の解体を撮影した「新・建築の黙示録」、イタリアのシュルレアリスム画家キリコの絵画に触発されたというスカイツリーの建築過程をピンホールで撮った「塔と柱」が展示されている。
展示作品数は合計112点、全体を通して写真のドキュメント性に注目した作品の展示。しかし特にキャリア自体を本格的に回顧するものではない。自らの生まれ故郷の徳之島に残る現地住民の祭りや生活にフォーカスした、キャリアの回顧と共に自分のルーツ探し的な要素が強い作品展示となる。

私たちは、普段は自分の見たいものだけに意識を向けるという認知的な特徴があると言われている。いわゆる認知バイアスと呼ばれ、心理学の世界でよく知られている傾向だ。これは個人だけの傾向ではなく、集団や社会にも当てはまるのではないだろうか。効率化が求められる現在社会では、その流れから外れて、人々に見られなくなった多くのものが、気付かないうちにどんどん世界から忘れ去られ消えていく。歴史の必然と言えばその通りかもしれない。
本展タイトル「いまだ見えざるところ」は、色々な解釈が可能だろう。私は、「いまだ見えざるところ」を意識する重要性を示唆していると直感した。タイトルの“見えざる”は“見えていない”、もしくは“見ていない”なのだ。それは宮本自身が自らの生まれ故郷を見ていなかったという意味でもあるのだろう。
写真家である宮本は意識的に世の中を客観的、批判的に見る習慣を持っている。今回展示の一連のドキュメント作品は彼の冷徹なまなざしの存在をよく物語っている。優れた写真家は、思い込みにとらわれず、感情的にならず、自分自身をも客観視できる人なのだ。このような素養を持った写真家は案外少ない。

“面縄ピンホール2013″の展示風景と宮本隆司

宮本の両親はともに徳之島出身。しかし彼は幼少期に島で短期間だけ暮らしたものの、その記憶を持たないまま世界中で仕事を続けてきた。しかし彼の心の中には、生まれ故郷の徳之島の無意識化した記憶がひっかかっていた。キャリア後期になり、自分のルーツへの対峙を意識する。2014年に手掛けた「徳之島アートプロジェクト」以来、この島での作品制作に取り組むことになる。そこで「見えてきた」、琉球文化の影響を受ける島の特徴的な文化の存在の提示が本展の大きなテーマなのだ。
宮本が撮影した、サトウキビやソテツ、現地住民のポートレートを見ていると、本土とは全く違う時間が流れているのがわかる。しかし、これらは厳密な民俗学的ドキュメントではない。彼は自分の無意識化した幼い時の島の思い出を、現在の島に残る様々な断片的なシーンの中からパーソナルな視点で紡ぎだしたのだ。ソテツやサトウキビ畑が展示の中でフィチャーされているのは、幼少時に感じたそれらの存在感が記憶に強く残っていたからだろう。
本展には、1968年、彼が21歳の時に島を再訪した時に撮った、たぶんオリジナルはやや変色しているであろうカラー作品3点が展示されている。その他の最近に撮影されたカラー作品も、何か色のトーンが1968年作品に近いように見えてきてしまう。特に図録の図版にはそのような印象が強い。現在と過去との時間感覚が混ざりあい、まるで幼少の宮本が見たであろうシーンが現代に蘇ったようだ。

島の特徴的な文化や人々の生活風習を写真で撮影する行為は、効率重視で多様性を失っていく現代社会の是非を世に問う、より広い社会的メッセージ性も感じられる。メインビジュアルに抽象的なアナログのピンホール写真を持ってきたのは、現代社会の象徴であるデジタル技術を駆使したヴィジュアル・テクノロジーに対抗する表現だからではないか。それは現代建築技術の粋を集めて制作されているスカイツリーをピンホールカメラで撮影したのと同じアプローチだと思う。

いま時代の流れは大きく変化し始めたように感じられる。1990年代から拡大してきた貿易重視の経済のグローバル化が大きな曲がり角を迎えている。経済のナショナリズム化、ローカル化が今後の大きな流れになるような予感がするのは私だけだろうか?いままでのグローバル化の世界は効率重視で、文化の多様性にあまり寛容ではなかった。本展の「東方の市」、「建築の黙示録」などの前半展示の流れは、まさにそのような今までの世界的な流れを回顧している。最初のロー・マンタンの展示は、全体との関連はややわかり難い。しかし、世界から隔離された電気もガスも通っていない、標高3,789メートルの城壁都市のシーンは、グローバル経済から孤立した世界として象徴的に展示されていると読み取れる。それは日本に当てはめると、徳之島と同じような場所だという意味でもある。そしてメイン展示である徳之島のシリーズでは、世界の現状と変わりゆく未来を暗示していると解釈できるのではないだろうか。

宮本隆司 いまだ見えざるところ
東京都写真美術館(恵比寿)
5月14日(火)~7月15日(月・祝)
10:00~18:00、木金は20:00まで
入館は閉館の30分前まで
休館日 毎週月曜日 ただし、7月15日(月・祝)は開館
入場料:一般 700円/学生 600円/中高生・65歳以上 500円

鋤田正義 写真展 in 大分 2019
@アートプラザ

鋤田正義の展覧会が大分市のアートプラザで4月21日まで開催されている。

同展は、2018年に出身地福岡県直方市で行われた大規模な回顧展をベースに再構成されている。鋤田が学生だった1956年ごろに直方市周辺で撮影された、静物、ポートレート、風景、スナップ、自画像から、デヴィッド・ボウイ、マーク・ボラン、イギーポップ、YMOなどの代表的なミュージシャン関連ポートレート、広告・ファッション、ポートレート、風景のパーソナル・ワークなどの作品群がカテゴリーごとに分けられて展示。また大分展では地元湯布院などで撮影された新作のカラーとモノクロの風景写真が追加されている。

鋤田が最近になってテーマとして意識しているのは人間に不可欠な存在である「水」。東日本大震災の際お店からペットボトルの水が消えてなくなった時から気になっているとのこと。関心は幅広く、小惑星探査機“はやぶさ2”が小惑星リュウグウで、岩石に取り込まれた形で水が存在している事実を確認したニュースにも関心を持っている。
水のある風景写真では遅いシャッターで撮影して水の動きを表現しようとする場合が多い。鋤田はあえて高速シャッターで撮影し、水の一瞬の存在を顕在化しようとしている。ライブでミュージシャンを撮影するのと同じスタンスで風景/水と対峙しているのだ。
水、風景は、彼がライフワークだと意識している現在進行形のプロジェクト。今回の展示はその序章、今後も作品が増えていくだろう。

鋤田と言えば、彼が最初に撮影した1枚で、フジフィルム・フォトコレクション(日本の写真史を飾った写真家の「私の1枚」)に選出された、盆踊りの浴衣を着て笠をかぶった横向きの母親の姿を撮影した“母、1958”がよく知られている。本展では、鋤田の親戚の姪が同じ場所で、同様の格好の姿で、カラーで撮影された作品が、オリジナルと対で展示されている。

タイトルは“母 1957年/ 姪 2018年”となっている。2枚の写真は、笠をかぶっていることから顔はあごのラインしか見られない。しかし、時代は約60年離れているもののそのラインはまさに瓜二つだ。当然これは演出された写真となる。しかし、時代は経過しカメラはフィルムからデジタルへ移行し、ほとんどの事象は変化したものの、それとは一線を画して受け継がれていく血の流れのようなものの存在を提示している。オリジナル作はパーソナルワークだが、新作が追加されて、時代を写した広義のファッション写真とも解釈可能になった。

本展の隠れテーマは、実は会場の建物にある。会場のアートプラザは旧大分県立大分図書館で、設計したのは大分出身のポストモダン建築の旗手として知られる磯崎新(いそざき あらた、1931- )なのだ。

磯崎は、2019年に“建築界のノーベル賞”と紹介されることもあるプリツカー賞を受賞している。つくばセンタービルや水戸芸術館を設計したことでも知られている。同館3階は磯崎新の建築作品の模型や資料を常設展示する磯崎新建築展示室となっている。

実は、鋤田はかつて磯崎と美術雑誌で、各界の最先端の人物が集う対談に参加したことがあるとのこと。大分展開催に際して、いくつかの会場が候補に上がったが、アートプラザは磯崎新の設計だと聞いて鋤田本人が同会場を希望したそうだ。同館は1966年に大分県立大分図書館として開館。当時には日本建築学会賞を受賞した磯崎建築の代表作。1998年に改装されて複合文化施設のアートプラザとして再生されている。

本展の展示作の多くは、60年~80年代に撮影されている。鋤田作品のような時代性が反映された作品は、現代的で無機質なホワイトキューブ的な会場で展示されるとリアリティーが弱まることがある。何か写真がかしこまった様になり、時代が発していたエネルギーが薄まって感じられる。
しかし、磯崎新の会場に展示されると、作品と場所が共鳴しあい。当時の気分や雰囲気がとても強く蘇って感じられるのだ。建物内部はコンクリートの打ちっ放しで、天井には丸い窓がちりばめられ、豊富な自然光が作品を照らしている。

もし、昭和の時代に同じような鋤田正義の写真展が開催されていたとしたら、本展と同じような佇まいの展示になったと思われる。まるでタイムマシーンで昭和時代の展覧会会場に舞い戻ったようだった。展示の仮説壁面の設えや、一部のパネル貼りによる写真展示も館内の空気と見事にマッチしているのだ。
私は本展自体が、鋤田正義と磯崎新の一種のコラボレーションの大きな作品だと感じた。

かつてミュージシャンのポートレートやファッション写真は、演出された作り物であり、アートではないと言われていた。しかし、いまやニューヨーク近代美術館がアイスランド出身のミュージシャンのビョークの展覧会“Bjork”(2015)を開催する時代だ。デザインを専門とする英国ヴィクトリア&アルバート美術館は、“David Bowie is”を2013年に、デザイナーのクリスチャン・ディオールの“Christian Dior : Designer of Dreams”や“Mary Quant”の展覧会を2019年に開催している。いままでは大衆文化的な受け取り方が主流だったが、この分野の中にもアート的な要素を持つ幅広い表現が存在することが明らかになっている。
念のためだが、単なるブロマイド的なミュージシャンのスナップ写真や洋服を見せる目的のファッション写真も存在する。ここで紹介しているのは、それらとは一線を画する存在の作品であることを確認しておきたい。

私は、これらは権威の象徴である美術館側が、新たな視点から価値を見出した、いわゆる「見立て」を行ったのだと解釈している。
日本でのこの新たなアート分野の代表的写真家が鋤田正義なのだ。
彼は広告写真家だという人もいるが、広告の仕事で生計を立てながら自己表現をポップカルチャーの最前線で行っていたと解釈すべきだろう。
本大分展では、磯崎新とのコラボレーションを行うことで、その存在感を一層アート界にアピールしていると評価したい。

鋤田正義 写真展 in 大分 2019
会期:2019年3月15日~4月21日
会場:アートプラザ 2F アートホール
開館時間:10:00-19:00
チケット:一般 1000円、前売り800円

オフィシャルサイト
会場

ピエール セルネ & 春画
@シャネル・ネクサス・ホール

本展は、フランス人アーティスト、ピエール セルネの現代アート的作品と、浦上蒼穹堂・浦上満コレクションが収蔵する浮世絵の春画を同時展示する試み。

Pierre Sernet 作品の展示風景

浮世絵の大胆な構図、線描、色彩は、印象派などの西洋画家に大きな影響を与えたことで知られている。浦上満コレクションの春画は、鈴木春信、鳥居清長、北多川歌麿、葛飾北斎などによる作品。浦上氏によると、春画は特定の絵師が専門にしていたのではなく、すべての制作者が表現の一つのカテゴリーとして手掛けていたとのことだ。
また春画は日本ではポルノグラフィー的に認識される場合が多いが、最近の西洋ではその作品性が再評価されているとのこと。そのきっかけは、2013年にロンドンの大英博物館で開催された大規模な展覧会。浦上氏は、日本での巡回展を試みたものの、公共美術館での開催は実現しなかったという。最終的には、元首相細川護熙氏の細川家が運営する永青文庫で2015年に開催されている。記録破りの観客動員数がマスコミの話題になったのは覚えている人は多いのではないか。同展プレスリリースの紹介文をシャネルのリチャール コラス氏が担当したのがきっかけで、今回のピエール セルネとの同時展示企画が生まれたとのこと。英国で成功したように、日本でも春画の歴史的な芸術性を再評価しようという試みなのだ。
しかし、春画が海外でファインアートとして評価されたと単純に理解してはいけないだろう。西洋では、日本は彼らとは違う価値観を持つ国だという理解が前提にある。日本の伝統的な大衆文化の一つの形態として、浮世絵の春画も注目するというスタンスなのだ。

ピエール セルネの“Synonyms”は、様々なカップルを被写体として、スクリーンを通してモノクロームのシルエットでそのフォルムを表現した作品。ニューヨークのメトロポリタン美術館収蔵の19世紀日本の掛け軸の影のような肖像画に触発されて制作したという。セルネの単体の作品は、どちらかというとグラフィックデザイン的要素が強い大判サイズの抽象作品といえる。
作家のカタログ掲載の本人によるエッセーによると、本作はインクの染みを見せて何を想像するかを述べてもらう性格検査心理テストのロールシャッハ検査の無彩色の図版や、ウサギとアヒルのヴィトゲンシュタインの有名な「だまし絵」のように、どのように感じられるかは“見る人の心のあり様に左右される”とのことだ。つまり見る人が作品にどのような文脈を与えるかによって、それぞれの見え方が存在するということ。抽象作品だが、作品タイトルにはモデルとなった二人のファーストネームが書かれている。見る側は、それを通して彼らの、性別、文化的背景、国籍が推測可能となる。つまり、人類には様々な文化的な違いが存在するものの、男女のフォルムに還元してしまうと違いはない、というのが作家のコンセプト。私は文脈と見え方/感じ方との関係性を提示した方法論自体が、より興味深い作品テーマだと解釈している。

本展は、キュレーションを行ったシャネルのコラス氏の見立てが重要な役割を果たしている。浮世絵の春画のアート性については様々な意見があるのは当然承知の上での展示だろう。エロチシズムを黒白のフォルムを強調して表現する現代アート的写真作品と共に展示することで、ポルノグラフィー的に解釈する人たちの意見に確信犯で一石を投じようということだろう。ロンドンの大英博物館やフランスの老舗ブランドのシャネルなど、日本人が海外からの評価に弱い点を巧みについているとの意見もあるだろう。しかし、コラス氏はもっと大きな視点から展覧会を開催したのだと思う。それはアートは世の中の多様性を担保する存在だということ。日本では忖度や空気を読むことが成熟した大人だという風潮がいまだに強く残っている。またアートはお上から与えられて、鑑賞するものだと考える人が多いのが現実だ。アートか猥褻かは、最も論議を呼ぶであろう、そして意見の分かれるテーマだろう。あえてそれを提示したのは、日本人にアートの多様性を気付かせる仕掛けではないかと思う。
私は90年代に日本で巻き起こった空前のヘアヌード現象を思い出した。当時は、週刊誌をはじめ多くのメディアは、アートだと言い切ることによって、ヘアヌードが猥褻だと当局からお咎めを受けないと考えたのだ。今回、コラス氏が意図したのは、そのような次元のことではなく、アートとして提示された作品に対して、誰でも自由に自分の意見を述べることができるということ。それに対しての発言は誰の心も傷つけることはないのだ。主催者は、老若男女、多くの人が会場に来てくれて様々な意見を交わしてほしいのだ。そして、アートは決して美術館やギャラリーで展示される物理的なモノではなく、それは一種の考え方もしくは思想、さらに進んで生き方なのだと示したいのだろう。また日本に長く在住しているコラス氏による日本のアート界へのメッセージでもあると受け止めたい。

なお本展は“KYOTOGGRAPHIE 京都国際写真祭”にも巡回するという。古の都でも様々な議論が交わされることになるだろう。

ピエール セルネ & 春画
シャネル・ネクサス・ホール(銀座)
3月13日(水)~4月7日(日)
12:00~19:30、入場無料
3/28は展示替えのため休館

ヒューマン・スプリング
志賀理江子
@東京都写真美術館

志賀理江子(1980-)は、愛知県出身の宮城県在住の写真家。ロンドン芸術大学チェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・カレッジ・デザインを卒業。2008年に第33回木村伊兵衛写真賞を受賞している。
主催者によると、本展“ヒューマン・スプリング”の趣旨は、“現代を生きる私たちの心の奥に潜む衝動や本能に焦点を当て、日本各地のさまざまな年代、職業の人々とともに協働し制作した新作を、等身大を超えるスケールの写真インスタレーションで構成します”と紹介されている。
カタログ掲載の“人間の春”という作家本人のエッセーには、“毎年春、さくらが芽吹く数日前に、全く別人になる人がいた。頬は赤く紅葉し、夜もねむらずあたりを歩み続け、目が合う誰しもに話しかけ、よく笑い、高鳴る旨の音がこちらにもきこえてくるようだった”そして、“春になると全くの別人になる人は、まさに、その(「死」を通じた時空)裂け目からやってきた精霊のようだった。(中略)そして、その症状には「躁」という病名がついた”と記されている。志賀は、心のバランスを崩すと、生を疑うようになり、死を呼び寄せる、という発言もしていた。また精神科医の木村敏が、著書の“臨床哲学講義”(創元社、2012年)で、内因性の躁の時制について“永遠の現在”という言葉を使っているとし、それがまるで写真のようだとも語っている。また“躁はすべて鬱だし鬱はすべて躁である、と言える”という同氏の見解も紹介している。

会場内で奥から入口方面を見ると、直方体の巨大な180 X 270 cmの面に、この「春になると別人になると思われる人の」ポートレートが“人間の春・永遠の現在”と題されて繰り返し並んで展示されている。カタログにも、ほとんどすべての見開きページの左側に、この人の同じポートレートを収録。文字ページの背景にも使用されていて、裏表紙も含めて約80点が掲載されている。

都写真美術館 志賀理江子“ヒューマン・スプリング”展

志賀はカタログのエッセーで、人間が社会生活の中で多大な精神的なストレスをかかえ、“心因性かつ単極の鬱病を大量に発生させている”と記している。この辺りに本作の基本構想が生まれた背景があるようだ。しかし、これは社会生活を送っていくうちに誰しもが認識することであり、特に作品テーマとして声高に提示するような新しい視点でもないというツッコミがはいるかもしれない。
しかし、いままでに多くの世代の人が意識してきた問題意識を、今の30代後半の人も共有している点に注目したい。もはや、限られた世代や時代の問題ではなく、現代日本社会における根深い状況になっていると解釈したい。

本作で、志賀は精神的に病んでいく根本的な原因は人間と自然とのバランスが崩れたことにあると認識している。都会で人工的な社会生活を送っていると自然など意識しないだろう。しかし、長い冬からの春が訪れという自然の大きな変化を体で受け取り、全くの別人のなる人との出会いを通して、彼女はその事実に否応なしに気付かされた。また本作の作品制作の背中を押したのは、東日本大震災の体験だろう。それは普段私たちが忘れている自然の中の小さな存在を意識するきっかけになった。考え抜いた末ではなく、天変地異との遭遇から直感的に生まれてきた作品制作の衝動だったと思う。

本展は、日本古来の価値基準をもう一度見直してはどうかという提案でもある。それは、自然美に一種の神を見出し、恐れを抱きながら共に生きるというもの。いま世界の多くの人は、環境破壊や気候変動に直面し、西洋の自然を利用して経済成長するという、長らく続いた近代主義の考え方に疑問符を持つようになっている。明治以降の日本も例外ではない。
様々な考え方が議論されているが、自然に神を見出しだすような、かつての日本の美意識や地球共同体的な考えが注目されるようになっている。実際のところ、このような考えを安易にテーマとした作品は数多く存在している。21世紀の日本の山河に、古の日本の優美の美意識を見つけ出した、というような退屈な風景写真だ。残念ながら、それらの多くは、表層だけをとらえたテーマ性が後付けされた、リアリティーに欠けた写真だ。
一方で、志賀は同じ深遠なテーマを、人間の中に眠る身体性を蘇らせて、一種の祭りのような身体性を持つ写真撮影のパフォーマンスをチームで行って表現している。その延長線上に、今回の巨大写真を張り合わせた直方体のオブジェを会場全体に並べるインスタレーションが生まれたのだろう。しかし、彼女は特に古き良き時代の日本の考え方に戻れと言っているのではないと思う。そんなことは望むのはナイーブで非現実的だと当然理解しているはずだ。しかし、いま確実に進行している危うい社会状況を、ヴィジュアルで可視化させて、来場者に意識するきっかけを提示したいのだろう。

いくつかの展示作品は、米国人写真家ライアン・マッキンレーのヴィジュアル・スタイルと似ていると感じた。志賀は自然と人間との関係性の再構築の可能性に取りつかれている。アメリカ人も病的に自由であることに取りつかれているともいえるだろう。マッキンレーは不自由を強いられる現代生活の中で、かつての自由でルールがないような世界を追い求めて創作している。二人ともに今はない、かつてあったファンタジーの世界を、時間軸は違うものの作品で構築しているのだ。またチームで創作する点や演出する点も類似性を感じさせられる。
志賀は1980年生まれ、マッギンレーは1977年生まれの同年代。国は違えども、今を考えるヒントを、過去に求める共通のメンタリティーを持っているのだろう。

都写真美術館 志賀理江子“ヒューマン・スプリング”展

多くの来場者は、会場に足を踏み入れると、まず展示風景に困惑するだろう。それは全く知らない土地で、突然その地の伝統的な祭りに出くわしたときのような戸惑いと同じだ。会場内で彼らが感じる違和感、もしくはノイズも作家が意図したもう一つのテーマなのだろう。
現代社会では、私たちは自分の興味ある情報にしか触れなくなっている。社会システムから、個人が好む価値だけを与えられて、何も考えないで生かされる世界が現実化している。そこで生きる人は、違和感を無意識的に避けるようになっている。自分の狭い価値基準が全体の世界だと信じて、ぐるぐる回っているような状況だ。違和感は、自らの思い込みに気付かせてくれ、意識的に考えはじめるきっかけを提供してくれる。私は創作には違和感を避けるのではなく、意識的な対峙が必要だと考えている。本展では、上記のような、いまの社会状況をインスタレーションで表現しようとしているとも解釈可能だろう。
会場内に並べられた20個の巨大な直方体のオブジェは、私たちの表面的な社会のように整然ときちんとしているように見える。しかし、個別のヴィジュアルに目を移すと、そこには普通ではない「春になると別人になると思われる人」のようなシーンが繰り返し登場する。そして、よく表面を見ると、タイプCプリントにはたるみが出て、決してフラットではないことに気付く。一見平穏に見える世界に潜んでいるノイズがそこに表現されている。
会場内には、オブジェのスケルトンの、写真が貼られていない木材の枠組みが1点だけ置かれている。(上の画像の左奥) 製作途中で放棄されたかのような枠組みは、全体の展示物の中でのノイズであり、会場内に潜む違和感に気付く割れ目のような役割を担っている。そして、その違和感は、私たちが自然とのバランスを崩していることへの気付きにつながってくるのだ。

来場者は、違和感を拒否するのではなく、ぜひそれに対峙して味わってみてほしい。世界を理解する新しい視点が自分の中から呼び起こされるきっかけになるかもしれない。

志賀理江子 ヒューマン・スプリング
東京都写真美術館(恵比寿)

INSULA LUX 光の島
アントニ タウレ展
@シャネル・ネクサス・ホール

INSULA LUX ©Antoni Taule

アントニ タウレ(Antoni Taule)は1945年スペイン・バルセロナ県サバデル出身。建築家を経て画家/写真家となったアーティストとのこと。
日本初個展となる“INSULA LUX 光の島”では、長年暮らし、創作の源となった地中海のフォリメンテーラ島を描いたシリーズが展示されている。彼が“私のイメージ、絵画と写真は密接に関連しているため、それらを切り離すことは難しい”と語っているように、展示されている絵画作品は写真とのかかわりを強く感じさせられる。写実的で光を巧みに取り入れた作風は、20世紀アメリカ画家のエドワード・ホッパーを思い起こすという人もいるだろう。
厳密には、展示されているのは2種類の作品となる。大判サイズの“Oil on canvas”の絵画のキャンバス作品と、写真の上に油彩で着色された24X36cmサイズの“Oil on C-print”の額装作品だ。前者の絵画は2016~2018年に描かれたもので、後者は過去に撮った写真の上に主に2018年に絵を描いたものだ。キャンバス作品が大判サイズなのに“Oil on C-print”が小ぶりになっている。たぶん写真では十分なクオリティーのヴィジュアルが技術的に引き伸ばしきれなかったのだと想像できる。しかし大判キャンバス作品も、間違いなく最初に写真が存在していて、それをベースに室内空間を描き、扉の外の風景を想像して描いたのだと思う。

現代のアート界では写真はアーティストの表現技法のひとつと認識されるようになった。21世紀になって進歩した写真のデジタル化とアート界の現代アート優先の動きによってそれはさらに加速された。
アントニ タウレはかなり以前から写真を作品表現の手段として取り入れてきた画家なのだろう。“Oil on C-print”では、写真撮影された室内写真と絵画で描かれた太陽光で輝く扉越しの野外の風景が連続している。つまりCプリントの一部に絵の具でイメージを描きこんでいるのだ。それも写真と同様に精密かつ写実的にディテールを描きこんでいるので、一見しただけでは写真と絵画とが一体化しているような印象だ。
ウィリアム・クラインや荒木経惟などのように、プリントされた写真の表面に絵の具で着色したりデザイン画を加える人はいる。しかしアントニ タウレのような両メディアを連続させ一体化させて見せるアプローチはあまり見たことがない。画家の視点で写真を表現方法に取り入れているのだ。
写真はその撮影場所のドキュメンタリー的な要素が強くなる。そこに想像力を生かして絵画を描き融合させることで、現実と空想が一つのヴィジュアルの中で共存可能になる。もう70歳を超えているのに、まるで若きアートスクールの学生が描いたかのような印象さえ受ける意欲的なアプローチだ。

INSULA LUX ©Antoni Taule

多くの作品では、空虚でオープンな暗い室内スペースが手前にあり、その先に明るい外界につながる扉が描かれている。室内には人物像、ソファー、装飾、連なる間口。扉の先には、輝く真っ白な光の開口空間、古代の建造物、海岸線、荒地、道、樹木、幻影などが描かれている。それらは時に見る側の想像力を展開させるヒントとなる。彼はこの手法で空間を表現することで、現実の中に想像上のまだ見ぬ未来への切り口を描いたのではないだろうか。
その未来には喜びも、悲しみも様々あることを暗示しているが、光の洪水の空間が象徴するように最終的には天国(死)が待っているということではないか。その静謐な作品は一種の欧州の伝統的な宗教画との関わりを思い起こさせる。ただし、瞬間を切り取る写真を使用することで、今に生きることを重視する東洋の知恵も作品のエッセンスとして取り込んでいるのかもしれない。作品の背景を色々と想像させてしまう魅惑的な作品の展覧会だ。

INSULA LUX ©Antoni Taule

最近の写真展はカメラ関連企業主催によるアマチュアを意識したものが主流になりつつある。知的好奇心の強いアート系のファンからは、写真系は表層重視で物足りない作品展示が多いという声を聞くことが多い。今回のアントニ タウレ展は、まさにアート系写真を好む人たちが待ち望んでいた展覧会だろう。

会期:2月14日(木)まで開催(入場無料・会期中無休)
時間:12:00~19:30 
会場:シャネル・ネクサス・ホール
(中央区銀座3-5-3 シャネル銀座ビルディング4F)https://chanelnexushall.jp/program/2019/antonitaule/

写真展レビュー
“ちいさいながらもたしかなこと”
@東京都写真美術館

東京都写真美術館の、新人若手写真家の写真を展示する15回目の企画展。多くの人が気になるのは、膨大な数の写真家の中から彼らが選出された基準だろう。それについては、プレスリリースやカタログには明確な説明や記載がない。
それでは本展タイトル“ちいさいながらもたしかなこと”からヒントを探してみよう。担当のキュレーター伊藤貴弘氏は、カタログ・エッセイの「おわりに」に、“彼らに共通するのは、自らの感性や考え方、アイデンティティーやリアリティーをてがかりに、社会とのかかわりを意識しながら個人的な視点で作品を制作していることだ。その姿勢は、今を生きるアーティストであれば誰しも少なからず持っていて、目新しいものではないかもしれない”と述べている。カタログの「ごあいさつ」にも同様の開催趣旨が書かれている。個人的には確かであるものでも、決して普遍的ではない点を開催者は認識しているのだ。伊藤氏は、タイトルはそのようなやや逆説的なニュアンスもあるとも語っていた。
どうも今回の新人若手写真家展は、美術館が2018年現在の時代性を最も表した写真家を審査の上で選出したというよりも、責任キュレーターのパーソナルな視点により企画されているようだ。まずこの点を知った上で鑑賞することが必要だろう。

しかしたぶんこれは美術館により確信犯で行われていると私は考えている。抽象的な言い方になるのだが、現在は価値観が多様化した時代だといわれている。いくら多様な価値観の展示を試みても、それらは取り上げるキュレーター、評論家、ギャラリスト、写真家らにとっては個人的に意味を持つが、決して多くの人が共感するような一般的なものにはなりえないのだ。そうなると、新人選出の方法論は複数の専門家による価値基準の調整を行った上で行うか、個人の専門家の視点を生かしたキュレーションかになるだろう。前者がキャノンの写真新世紀や朝日新聞出版の木村伊兵衛賞、後者が本展のような美術館展となる。個人による判断には偏りがでるという批判もあるかもしれないが、同館のようにほぼ毎年継続して行うのであれば問題ないと考える。単体としてではなく、複数の連続した企画として見ると、結果的な多様化した現代の状況が浮かび上がってくると思う。本展だけを単体で見ると視点が分かり難いと感じる観客もいるかもしれない。

選出されたのは30から40歳代の、森栄喜(1976-)、ミヤギフトシ(1981-)、細倉真弓(1979-)、石野郁和(1984-)、河合智子(1977-)。
それでは、写真家が自分なりに小さいながら確かだと認識してテーマとして取り上げて撮影しているのは何だろうか。それらは、感覚、家族、人間関係、ジェンダー、アイデンティティー、時事的な出来事、文化的差異、歴史、水の循環、視覚、方法論(撮影、プリント、展示)などだと思われる。
ちょうど、先月に「写真新世紀」の展示を同館で見た。これは世界中の人を対象とした複数の選出者による公募展。私は、外国人の作品が社会的問題点をテーマとして掘り下げて追求するのと比べて、日本人の関心が自分のことや内面に向かいがちだと感じた。大賞は、シンガポールの環境問題「煙霧」(ヘイズ)を表現したソン・ニアン・アン氏だった。同じような傾向は今回の展覧会でも見られる。それぞれの関心や興味は多種多様だが、多くの写真家の関心の前に“自分の”と付けると一貫性が出てくるのだ。社会的な事柄も、自分が個人的に関心を持つものなのだ。自分以外の人が、作品に興味を持ってもらう仕掛けへの工夫がやや物足りないと感じた。

本展の特徴は多くの人が写真以外に映像を流していた点だ。自分の感覚の流れや移ろいを表現するのには、スティールよりも映像の方が適しているからだろう。これは展示多様化の流れと、内向き表現の表れだと解釈できる。
また本展の参加者は、細倉真弓以外の4名はすべて最終学歴が海外の教育機関出身だった。しかし、作品が提示するタイトル・テーマなどの方法論は海外のファインアート系を意識しているのは分かるが、本質は自分で深く考え掘り下げるよりも、感性を重視した表現になっている。日本で教育を受けたアート系の若手の作品とあまり変わらないのが興味深かった。

いまや写真は誰でも撮影する真に民主化したメディアになった。特に日本はその最先端をいっており、写真は現代社会に生きる個々人の意識や集団無意識を反映させた表現になっていると感じる。そこには、歴史や伝統が背景のファインアートと応用芸術との違いなどない。プロ・アマの違いも存在しないのだ。このような認識に立てば、本展は写真表現に特化した美術館のキュレーターによる、現代日本の若い世代のセンチメントをサンプリングし掬い上げた非常に意欲的な試みだと解釈できるだろう。

小さいながらもたしかなこと
日本の新進作家 vol. 15
東京都写真美術館(恵比寿)

http://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3098.html

写真展レビュー
“写真 X 建築 ここのみに在る光”
@東京都写真美術館

東京都写真美術館は、膨大な数の写真コレクションをどのような切口で紹介するか常に試行錯誤を行っている。本年5月には、写真を“たのしむ、学ぶ”をキーワードに展覧会を企画している。
今回は“建築”の写真によるキュレーションに果敢に挑戦。しかし、雑誌カーサ・ブルータスを愛読しているような建築写真好きな人を想定しての企画ではない。あくまでも、写真ファンやカメラ愛好家を想定した、非常にオーソドックスな写真展だ。19世紀から現在まで続いている、拡大解釈された建築物を被写体として撮影された写真の歴史を網羅する構成になっている。
ちなみにカーサ・ブルータスは、2005年7月号で“見る、撮る、買う! 建築写真の愉しみ。”という特集号を出している。そのなかで、巻頭でトーマス・ルフ、ベッヒャー夫妻、カンディーダ・ヘーファを紹介。さらに“建築を記憶する傑出した10人。”として、ルネ・ブリ、エズラ・ストーラー、石元泰博、ジュリアス・シュルマン、ハイナー・シリング、アンドレアス・グルスキー、トーマス・シュトルート、ホンマタカシ、畠山直哉、ルイザ・ランブリをピックアップ。ギャラリー小柳の紹介ページでは杉本博司の「建築」シリーズを取り上げている。こちらは明らかにいま流行りの現代アート系作家の作品紹介を中心としていた。
本展と重なる写真家は、ベッヒャー夫妻、石元泰博だけ。同じ建築の写真だが切口が全く異なっている。

今回の展示で、現代アート系写真の重鎮であるベッヒャー夫妻の作品“9つの戦後の家”が含まれているのは非常に意味があるといえるだろう。これにより本展は、従来の写真表現自体でのアート性の追求から、現在の現代アート系写真につながる、写真がより幅広いアート表現の一形態となっていく未来像を示唆するものとなっている。以上から、この建築写真の企画は、現代アート系をフォーカスした第2部に展開する可能性を感じさせられる。もしかしたらその舞台は、現代アート系をカヴァーする東京都現代美術館かも知れない。

作品展示は2部で構成されている。写真の専門美術館らしく、ダゲレオタイプ、カロタイプ、アンブロタイプ、鶏卵氏、ゼラチン・シルバー・プリント、タイプCプリントなどのアナログ写真から、最新のデジタル技術で制作されたインクジェット作品までを含む、写真表現の歴史を提示する展覧会にもなっている。

第1章では同館が収蔵する貴重な作品群が展示されている。建築の写真なのだが、まるで19世紀から20世紀の写真史の教科書を見るようだ。一番古い写真はジャン=バティスト・ルイ・グロの“ボゴタ寺院の眺め”。これは1842年制作の1点物のダゲレオタイプ。世界初の写真集“自然の鉛筆”で知られるウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットのオックスフォードのクイーンズ・カレッジ、横浜に写真館を開き、日本全国を撮影したイタリア人写真家フェリーチェ・ベアトの“愛宕山から見た江戸のパノラマ”、ウジェーヌ・アジェの19世紀末のパリ、ベレニス・アボットの30年代の変わりゆくニューヨーク、ウォーカー・エバンスの米国南部の街並み、前記のベッヒャー夫妻によるタイポロジー作品も必見だろう。アート写真ファン、コレクター、写真やアートを学ぶ学生ならば、第1章の29作品を見るだけでも十分に本展を訪れる価値がある。

第2章では、渡辺義雄、石元泰博、原直久、奈良原一高、宮本隆司、北井一夫、細江英公、柴田敏雄、二川幸夫、村井修、瀧本幹也の日本人写真家11人のポートフォリオをミニ個展形式で紹介。こちらの方が展示数も多く、はるかに広いスペースが割り当てられている。
日本人の写真家の作品も、建築やインテリア自体が撮影されている写真と、広く建築写真と定義することは可能だが、写真家の表現が第一義になっている作品も混在している。写真家の代表作の一部といえる、石元の“桂”、宮本の香港にあった“九龍城壁”、細江の“ガウディの宇宙”、渡辺の“伊勢神宮”、奈良原の“緑なき島-軍艦島”、原の“イタリア山岳丘上都市”(展覧会チラシの写真)、北井の長きにわたり忘れ去られていた“ドイツ表現派1920年に旅”などのオリジナル作品を鑑賞することができる。多くは貴重なヴィンテージ作品だと思われる。最後の展示スペースでは瀧本が2017~2018年に撮影したという、“Le Corbusier”を展示。現在の広告分野の写真家が考える、建築に触発された作品が、抽象的でデザイン感覚重視の大判サイスの現代アート風であることを象徴的に紹介している。

本展カタログの解説で、キュレーターの藤村里美氏は、“渡辺、石元、二川は明らかに記録としての要素が強い”、“奈良原と細江は「パーソナル・ドキュメント」であり、あくまで個人に視点を強調している”、“原、北井、宮本の作品は(中略)個人の意識を抑制したフォト・ドキュメントである”、“柴田、瀧本は、全体像を追うのではなく、独自の視点から細部を強調し、対象の本質に迫ろうとしている”と展示作品を分析している。
専門家の視点からは様々な見方があるが、一般の観客はもっとシンプルに見ればよいだろう。本展の提示作品の中で、19世紀写真は表現というよりも記録目的だった。しかし、20世紀以降の写真になると建築自体を表現しようと撮影された写真と、写真家の自己表現の中に建築が写っている写真が混在している。私はこの大きな二つの方向性の違いを意識して作品に接することを提案したい。本展は建築がメインテーマなので、個別作品の生まれた詳しい解説はあまり紹介されていない。しかし見る側が作品と能動的に接したときに、写真家が何かを語りかけてくるのか、それとも建築物が主張しているかで違いが判断できるのではないだろうか。

“建築 x 写真 ここのみに在る光”
東京都写真美術館(恵比寿)
開催中 2019年1月27日まで
詳しい開催情報は以下を参照ください。

http://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3108.html

写真展レビュー
“愛について アジアン・コンテンポラリー”
@東京都写真美術館

本展はアジアン・コンテンポラリーとして高い評価をえているという、アジア出身の女性アーティストのグループ展。企画立案は、4月まで東京都写真美術館でキュレーターを務め、社会における女性の地位やジェンダーのあり方にこだわった展覧会を行ってきた笠原美智子氏による。

キム・インスク(在日コリアン3世)の、“ハイエソ:はざまから”は、在日家族史を収めた映像と日常のポートレートによる作品。
キム・オクソン(韓国)の“ハッピー・トゥゲザー”、“ノー・ディレクション・ホーム”は、グローバル化、多文化がテーマ。国際結婚している女性や国外居住者、外来植物を撮影。
ホウ・ルル・シュウズ(台湾)は、“A Trilogy on Kaohsiung Military Dependents’ Villages”で、戦後の新しい移民集落が姿を消す前の最後の姿を”二重視線”の手法で作品化している。
チェン・ズ(中国)は、自傷行為をテーマに作品を制作、内省的なドキュメンタリーの“我慢できる”と、被写体と交わした各種コミュニケーションを写真作品化した“蜜蜂”を展示。
ジェラルディン・カン(シンガポール)は、自らの家族や親戚にまつわる写真や記憶をもとに、祖母、家族兄弟らと架空のファミリー・ポートレートを撮影した“ありのまま”を展示。
須藤絢乃(日本)は、性別にとらわれない理想の姿に変装した自分自身や友人を撮影した“メタモルフォーゼ”、実在する行方不明の女の子に扮して撮影したセルフポートレート“幻影”などを展示している。

複数文化の中での様々な葛藤と調和、生きるための自傷行為、パーソナルなセルフポートレート、作られた家族写真、忘れられつつある歴史の提示などがテーマの展示は、カタログの“ごあいさつ”で書かれているように、家族、セクシュアルティー、ジェンダーの在り方など、女性が関心を持ちやすいテーマが取り上げられている。
それぞれの作品の制作年を見てみると、かなりばらつきがある。古い作品は、キム・オクソンの2002年制作の作品から、須藤絢乃の2018年制作の作品までが含まれる。“アジアン・コンテンポラリー・フォトグラフィー”ということだが、その意味は現在中心ではないようだ。21世紀最初の18年間における、時代ごとの価値観に影響を受け翻弄されたアジアの女性作家たちの多種多様な作品を展示する意味合いが強いと思う。この期間に世界は、グローバリゼーションと新自由主義の考えが一世を風靡した後に、リーマン危機などを経て一般市民層の経済格差が拡大した。結果的に米国のトランプ政権誕生や英国のEU脱退などに見られるように旧来なナショナルな方向への大きな揺れ戻しが起こっている。それぞれの展示作は、アーティストの出身国独自の問題点や、パーソナルな関心をテーマに、時代ごとの社会の価値観に影響を受けながら制作されているという印象を持った。

コンテンポラリーの日本をテーマにした展覧会のキュレーションは極めて難しいだろう。20世紀後半の一時期のように、多くの人が同じような価値基準や将来の夢を持つような状況ではないからだ。どうしても、狭い範囲内の局地的な視点を掘り下げて提示するものになる。それは、現代アートの世界での問題点やテーマの提示と何ら変わらなくなる。女性やフェミニストやジェンダーのテーマ自体もかなり多様化している。アーティストは、表層的で抽象的な問題にとらわれると自己満足してしまい、思考停止状態に陥ることが多い。21世紀のアーティストは、大きなテーマの中でそれぞれがより内面深く思索を行い、問題点を掘り起こし個別に興味あるテーマを提示しなければならない状況にある。
今回の展示を見て感じたのは、アジアや女性作家を切り口にしても、このような基本的な状況は変わらないことだ。その中で何らかの傾向を提示するのが極めて難しくなってきたのだと感じた。この辺のところはキュレーターの笠原氏の理解も同じで、カタログ巻頭で“このグローバル化し価値観が多様化した情報社会において、国や地域でアーティストを区切り、一つの傾向を示すのは不可能になっているのではないか”と記している。
しかし、美術館の展覧会では何らかの方向性を提示しないわけにはいかないだろう。海外で開催されている若手のグループ展でも、例えばICP(国際写真センターニューヨーク)の“A Different Kind of Order”のように抽象的なキーワードを採用したり、撮影者の世代でグルーピングするものが多くなっている。
本展でも、女性が持つ感性に注目して“愛について”とタイトルを付けたと解釈したい。

しかしながら、各アーティストの国内(ナショナル)に根付いた事柄への関心の高さは、いまグローバル化が転換点を迎えていることが無意識か意識的かわからないが反映されている印象を持った。たぶん10~15年前であったら、グローバルな視点による共通の作品テーマが各国のアーティストから提示され、それらを傾向としてキュレーションすることが可能だっただろう。本展からは、現在のアジアの女性の国内を向きがちなパーソナルな関心を感じ取ることができる。数多いアジアの女性アーティストの中から、彼女たちが選出された理由もそこにあると解釈できるだろう。世界の趨勢とは違い、日本ではまだ反グローバル的な動きは強まっていない。また、フェミニズムに対しても、個人の主観だととらえるような風潮が見られるという意見も聞く。日本から選出された須藤の作品は、自分の内面を掘り下げ、類まれな想像力を駆使して生み出されたセルフポートレートだ。それらは、見事に現在の日本の状況が反映されている。

本展は、かつてのように女性のジェンダー的なこだわりを中心に提示するのではなく、タイトルが示すように、日本を含む現在のアジアの、まとまりのない、ばらけた状況を提示する展示になっている。笠原氏のいままでの仕事の区切りとなる展覧会ともいえるだろう。

愛について
アジアン・コンテンポラリー
東京都写真美術館

http://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3096.html

写真展レビュー
立木義浩 写真展 Yesterdays
黒と白の狂詩曲(ラプソディ)
@シャネル・ネクサス・ホール

ⓒ  Yoshihiro Tatsuki

立木義浩(1937-)といえば、代表作は“舌出し天使”だろう。カメラ毎日の伝説の写真編集者・山岸章二氏が、1965年の同誌4月号の巻頭56ページに掲載した立木の伝説のデビュー作だ。
これは当時売り出し中の若手写真家立木による、一人のハーフ・モデルのスナップで構成された都市のファンタジー作品。同誌に掲載された草森紳一氏の解説には、“・・・・文明批評などと考えないでほしい。夢の観客であってほしい。立木義浩も夢の運転者であると同時に観客なのだ。この写真集の新しさはそこにある。これは従来の数々の主観写真、心象写真などとももちろん異なっている。彼は、写真が文学や絵画の弾力を受けないこと、つまり象徴におちいりがちなセンス(意味)と構図の魅惑を一応放棄したのだ”と書かれている。
草森氏の解説には、編集者の山岸氏の意図が反映していると思われる。これは、立木の写真は、当時のアート写真・広告写真のジャンルにとらわれない写真であり、言葉では表現できない時代の持つ気分や雰囲気を巧みに掬い取った作品という評価だろう。60年代の英国ロンドンのストリート発ファッション写真が意識されており、その日本版を意識したのでないかかと思う。

同作には当時の若い日本人男性があこがれていた、西洋的な顔立ちのハーフの女性がモデルとして採用されている。それは海外では、西洋文化の真似の表現のように写ったと思われる。西洋では各国の伝統文化の独自性を愛でる多文化主義の流れがある。残念ながら本作はその評価軸には乗ってこなかった。当時の日本は、まだアート系写真と商業写真が併存していた。私は、山岸氏は本作などを通して、欧米とは違う日本独自のアート写真の価値基準の提示を考えていたのではないかと想像している。
しかし、山岸氏は79年なくなってしまい、その後の日本の写真界はバブル経済に突入し、商業写真が席巻してしまう。多くの人が、膨大な予算を持つ商業写真の先に、自由なアート表現の可能性があると考えてしまったのだ。しかし、それは不況と共に夢と消えてしまう。その時に、商業写真に背を向け生き延びた数少ない写真家が、いま海外から多文化主義の見地からアート系作家として評価を受けているのが現状なのだ。

さて、日本では自らの作品メッセージを写真家自身が語らないときに、第3者による見立てが行われることになる。そして長年の創作の過程で、複数の人による見立ての積み重ねが行われ、ブランド構築につながる。
見立ては自分が持つ作品への感覚、つまり感じたことを言語化することではないと考える。内観は自分に嘘をつくと心理学では言われている。ここは見立ての理解の上で勘違いを生みやすい箇所だ。
さて当然のこととして、日本には長く活動を続けている写真家が数多くいる。その中にはテーマ性が見立てられる人がいる一方で、感覚的に好みが語られるだけの人がいる。その違いはどこから来るのだろうか。たぶん前者は、人間社会は幻想のようなものであるが、人間はそこで生きる以外の選択肢がないと諦観しているリアリストの人で、後者は自分の感覚を重視するロマンチスト的の人なのではないかと疑っている。両者の作品制作の姿勢も明らかに異なる。前者は、創作は多くの人とのコラボレーション的要素が強いと理解している。後者は自分のやりたいことだけを追求しがちになる。そして後者の中で、優れた時代感覚を持つ写真家は、単にフィーリング重視でスナップ撮影するだけではない、社会に横たわる気分や雰囲気が反映された広義のアート系ファッション写真的な作品を提示しているのだ。立木義浩の写真はこのカテゴリーに入り、シャネル・ネクサス・ホールはその視点から彼を評価したと私は考える。

それでは。今回の展示作品はどのように理解すればよいのか。プレスリリースには“日常のなかでふと眼にした光景にレンズを向けるスナップショットを軸に、4人の女性とのフォトセッションを交え、構成されている”と書かれている。詳しい撮影年などの記述はプレスリリースなどで発見できないが、現代の東京でモデルを使って撮影されたポートレート、風景などのスナップ作品のようだ。ほとんどがモノクロのスクエアーの作品、一部にタテ長のカラー作品が含まれる。
これは立木が21世紀の東京において、彼自身がパーソナルに感じている時代の気分と雰囲気を表現した作品なのだ。“舌出し天使”のDNAが確実に受け継がれていると理解できるだろう。しかし、現在は“舌出し天使”が発表された1965年とは社会状況が全く違う。このような写真は多くの人が共通の価値基準と、同じ将来の夢を持つような時代背景があって成立する。1965年はそのような時代だった。しかし90年代以降の、価値基準がばらけて多様化した。このような時代には、多くの人の共感するようなアート系ファッション写真は成立しにくくなる。このたび“舌出し天使”が再版されるという。若い時にこの時代を生きた団塊の世代が主要な顧客になるだろう。別の言い方をすると、“カッコイイ”の意味が時代によって変遷するということだ。

20世紀に活躍した写真家を、21世紀に紹介する場合、無理矢理に現代アート的なテーマ性をキュレーターや編集者が作品にくっつける場合がある。しかし写真家自らがテーマ性を紡ぎだしたのでないので、体裁を整えただけに見えて違和感を感じる場合が多い。立木はそのようなことはせずに、今回“舌出し天使”の2018年版と解釈できる作品を提示したのだ。
ただし、山岸が亡くなって以来、立木のような写真家の評価軸は誰からも明確に語られなくなった。特にいまの外国では彼らを評価する基準は存在しない。このたび世界的なブランドが運営するシャネル・ネクサス・ホールで立木の写真展が行われたことは重要だと思う。本展開催で日本の写真史の未開拓分野を暗に指摘したているといえるだろう。これがきっかけになって、国内外からの関心が集まり、日本独自のアート写真の論議が巻き起こることを期待したい。

立木義浩写真展
Yesterdays 黒と白の狂詩曲(ラプソディ)

会期:2018年9月1日~9月29日
会場:シャネル・ネクサス・ホール
東京都中央区銀座3-5-3 シャネル銀座ビルディング4階
開館時間:12:00~19:30 (9月14日 17:00まで)
休館日 :無休

https://chanelnexushall.jp/program/2018/yoshihiro_tatsuki/