ヒューマン・スプリング
志賀理江子
@東京都写真美術館

志賀理江子(1980-)は、愛知県出身の宮城県在住の写真家。ロンドン芸術大学チェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・カレッジ・デザインを卒業。2008年に第33回木村伊兵衛写真賞を受賞している。
主催者によると、本展“ヒューマン・スプリング”の趣旨は、“現代を生きる私たちの心の奥に潜む衝動や本能に焦点を当て、日本各地のさまざまな年代、職業の人々とともに協働し制作した新作を、等身大を超えるスケールの写真インスタレーションで構成します”と紹介されている。
カタログ掲載の“人間の春”という作家本人のエッセーには、“毎年春、さくらが芽吹く数日前に、全く別人になる人がいた。頬は赤く紅葉し、夜もねむらずあたりを歩み続け、目が合う誰しもに話しかけ、よく笑い、高鳴る旨の音がこちらにもきこえてくるようだった”そして、“春になると全くの別人になる人は、まさに、その(「死」を通じた時空)裂け目からやってきた精霊のようだった。(中略)そして、その症状には「躁」という病名がついた”と記されている。志賀は、心のバランスを崩すと、生を疑うようになり、死を呼び寄せる、という発言もしていた。また精神科医の木村敏が、著書の“臨床哲学講義”(創元社、2012年)で、内因性の躁の時制について“永遠の現在”という言葉を使っているとし、それがまるで写真のようだとも語っている。また“躁はすべて鬱だし鬱はすべて躁である、と言える”という同氏の見解も紹介している。

会場内で奥から入口方面を見ると、直方体の巨大な180 X 270 cmの面に、この「春になると別人になると思われる人の」ポートレートが“人間の春・永遠の現在”と題されて繰り返し並んで展示されている。カタログにも、ほとんどすべての見開きページの左側に、この人の同じポートレートを収録。文字ページの背景にも使用されていて、裏表紙も含めて約80点が掲載されている。

都写真美術館 志賀理江子“ヒューマン・スプリング”展

志賀はカタログのエッセーで、人間が社会生活の中で多大な精神的なストレスをかかえ、“心因性かつ単極の鬱病を大量に発生させている”と記している。この辺りに本作の基本構想が生まれた背景があるようだ。しかし、これは社会生活を送っていくうちに誰しもが認識することであり、特に作品テーマとして声高に提示するような新しい視点でもないというツッコミがはいるかもしれない。
しかし、いままでに多くの世代の人が意識してきた問題意識を、今の30代後半の人も共有している点に注目したい。もはや、限られた世代や時代の問題ではなく、現代日本社会における根深い状況になっていると解釈したい。

本作で、志賀は精神的に病んでいく根本的な原因は人間と自然とのバランスが崩れたことにあると認識している。都会で人工的な社会生活を送っていると自然など意識しないだろう。しかし、長い冬からの春が訪れという自然の大きな変化を体で受け取り、全くの別人のなる人との出会いを通して、彼女はその事実に否応なしに気付かされた。また本作の作品制作の背中を押したのは、東日本大震災の体験だろう。それは普段私たちが忘れている自然の中の小さな存在を意識するきっかけになった。考え抜いた末ではなく、天変地異との遭遇から直感的に生まれてきた作品制作の衝動だったと思う。

本展は、日本古来の価値基準をもう一度見直してはどうかという提案でもある。それは、自然美に一種の神を見出し、恐れを抱きながら共に生きるというもの。いま世界の多くの人は、環境破壊や気候変動に直面し、西洋の自然を利用して経済成長するという、長らく続いた近代主義の考え方に疑問符を持つようになっている。明治以降の日本も例外ではない。
様々な考え方が議論されているが、自然に神を見出しだすような、かつての日本の美意識や地球共同体的な考えが注目されるようになっている。実際のところ、このような考えを安易にテーマとした作品は数多く存在している。21世紀の日本の山河に、古の日本の優美の美意識を見つけ出した、というような退屈な風景写真だ。残念ながら、それらの多くは、表層だけをとらえたテーマ性が後付けされた、リアリティーに欠けた写真だ。
一方で、志賀は同じ深遠なテーマを、人間の中に眠る身体性を蘇らせて、一種の祭りのような身体性を持つ写真撮影のパフォーマンスをチームで行って表現している。その延長線上に、今回の巨大写真を張り合わせた直方体のオブジェを会場全体に並べるインスタレーションが生まれたのだろう。しかし、彼女は特に古き良き時代の日本の考え方に戻れと言っているのではないと思う。そんなことは望むのはナイーブで非現実的だと当然理解しているはずだ。しかし、いま確実に進行している危うい社会状況を、ヴィジュアルで可視化させて、来場者に意識するきっかけを提示したいのだろう。

いくつかの展示作品は、米国人写真家ライアン・マッキンレーのヴィジュアル・スタイルと似ていると感じた。志賀は自然と人間との関係性の再構築の可能性に取りつかれている。アメリカ人も病的に自由であることに取りつかれているともいえるだろう。マッキンレーは不自由を強いられる現代生活の中で、かつての自由でルールがないような世界を追い求めて創作している。二人ともに今はない、かつてあったファンタジーの世界を、時間軸は違うものの作品で構築しているのだ。またチームで創作する点や演出する点も類似性を感じさせられる。
志賀は1980年生まれ、マッギンレーは1977年生まれの同年代。国は違えども、今を考えるヒントを、過去に求める共通のメンタリティーを持っているのだろう。

都写真美術館 志賀理江子“ヒューマン・スプリング”展

多くの来場者は、会場に足を踏み入れると、まず展示風景に困惑するだろう。それは全く知らない土地で、突然その地の伝統的な祭りに出くわしたときのような戸惑いと同じだ。会場内で彼らが感じる違和感、もしくはノイズも作家が意図したもう一つのテーマなのだろう。
現代社会では、私たちは自分の興味ある情報にしか触れなくなっている。社会システムから、個人が好む価値だけを与えられて、何も考えないで生かされる世界が現実化している。そこで生きる人は、違和感を無意識的に避けるようになっている。自分の狭い価値基準が全体の世界だと信じて、ぐるぐる回っているような状況だ。違和感は、自らの思い込みに気付かせてくれ、意識的に考えはじめるきっかけを提供してくれる。私は創作には違和感を避けるのではなく、意識的な対峙が必要だと考えている。本展では、上記のような、いまの社会状況をインスタレーションで表現しようとしているとも解釈可能だろう。
会場内に並べられた20個の巨大な直方体のオブジェは、私たちの表面的な社会のように整然ときちんとしているように見える。しかし、個別のヴィジュアルに目を移すと、そこには普通ではない「春になると別人になると思われる人」のようなシーンが繰り返し登場する。そして、よく表面を見ると、タイプCプリントにはたるみが出て、決してフラットではないことに気付く。一見平穏に見える世界に潜んでいるノイズがそこに表現されている。
会場内には、オブジェのスケルトンの、写真が貼られていない木材の枠組みが1点だけ置かれている。(上の画像の左奥) 製作途中で放棄されたかのような枠組みは、全体の展示物の中でのノイズであり、会場内に潜む違和感に気付く割れ目のような役割を担っている。そして、その違和感は、私たちが自然とのバランスを崩していることへの気付きにつながってくるのだ。

来場者は、違和感を拒否するのではなく、ぜひそれに対峙して味わってみてほしい。世界を理解する新しい視点が自分の中から呼び起こされるきっかけになるかもしれない。

志賀理江子 ヒューマン・スプリング
東京都写真美術館(恵比寿)