私は定型ファインアート写真への取り組みは、自分探しに展開する可能性があると考えている。若いときは多くの人は自分を発見するために、思いつく範囲内で様々な行動に取り組んで経験してみる。例えば自分好みの音楽を求めて、多くのジャンルやミュージシャンの曲を聞いてみた経験は誰でも少なからずあるだろう。人によってそれは読書だったり、映画だったかもしれない。
しかし自分の個性で求めていたと感じたものは、案外人気ランキング上位で多くの人の好んでいる表現だったりする。
社会にでると、学生時代には知らなかった多種多様な価値観が存在することを知り、多くの人は迷路に迷い込む。選択肢の多さのなかで、自分自身がどのような個性をもった人間かわからずに、外界から浴びせられる様々な刺激に翻弄される。多くの人は社会で一般的に共有されている、会社での尊敬/評価や、お金持ちになるなどの私的幻想を作り上げ、社会の中で他人との共同化の競争を行う。
しかしこれが自分だと思ったものは、おおむね社会や組織での役割や関係性の中でしか存在しない。私たちが頭のなかで作り上げられた思い込みにすぎないのだ。それらが思い通りになるかどうかは偶然性が大きく左右しており、個人の努力では変えられない場合も多い。現代人の悩みや生きにくさは、この思い込みへの過度のこだわりから生じる。
ここまでは前回の主張を違う視点から繰り返して述べた。
さて私が提案している定型のファインアート写真のZen Space Photographyは実践自体を通して、思い込みにとらわれない生き方を提供してくれかもしれないのだ。まず頭に浮かんでくる思考/邪念を消しさり、無心状態で自然や世界と対峙して、心が動いて「はっ、ドキッ」とする瞬間を見つけようとする。この一連の行為は自分を発見する入り口になる可能性があるかもしれない。
まず最初のステップは、自分は何が得意で苦手で、どんな個性や興味を持つ人間かを知ることになる。表現や創作は自分がどのような意思を持った人間かを発見する行為。その中で写真が最も手軽に実践できる技術なのだ。言い方を変えると、ここで提案しているのは、定型ファインアート写真の制作を通して、思い込みにとらわれずに、自分発見に取り組み、その先に自分探しを行うことなのだ。
写真で作品制作といっても、どのような考えをもって、何を撮ってよいかわからない人が多いだろう。しかし、ここでは作品テーマやアイデアなどの枠が用意されているので、写真を撮る人はそれに従って創作に集中すればよい。写真では、撮影場所やカメラの選択など、自分一人で様々な判断を下す必要がある。そして現場では、カメラをどの方向に向けるか、なにを被写体に選び、どこでシャッターを押すかを決断する。これらの撮影プロセスにはすべて自分の意思が反映される。いまのデジタル写真時代では撮影後の編集作業も含まれる。また過去に撮影した写真を見直す一連の作業の中にも自分の意思が反映されるだろう。
ここで極めて重要なのは、アマチュア写真家のように、人にほめてもらう、承認欲求を満たすための写真でない点。それだと、自分の思い込みを他人に証明するような、また社会/組織の中での役割や関係性に依存する写真表現になってしまう。他人指向ではなく、自らを探求して作品の制作意図を再確認する自分志向の行為に意味があるのだ。
定型ファインアート写真を通して意識的に世界と対峙し、自分自身の特徴が把握できるようになれば、その先に思い込みにとらわれない、やりたいことや夢が見えてくるかもしれない。写真を通しての自分発見の行為はライフワークだと考えて取り組めばよい。もし写真を通じて社会に対して意識的になれるのなら、それはそれで充実した生き方ではないだろうか。
実のところ思い込みから自由になれば、案外自分の夢やその実現などにこだわらなくなり、肩の力が抜けた素直な写真が撮れるのだ。私はいつもそのような写真家と作品との出会いを待ちわびている。
実は次回展で約10年ぶりに紹介する丸山晋一の一連の写真作品は、無心状態で自然や世界と対峙して、心が動いて「はっ、ドキッ」とする瞬間を見つけようとする写真作品だ。継続した作品制作自体が作品テーマに展開している実例になっている。5月11日から「Shinichi Maruyama Photographs:2006-2021」を開催する予定だ。興味ある人は写真展のプレスリリースを参考にしてほしい。