「ART NAGOYA 2011」猛暑の名古屋の熱いアートフェア

8月5から7日にかけてウエスティンナゴヤキャッスルで開催された名古屋のアートフェアに参加してきた。
同ホテルは名古屋では最も伝統と格式が高い場所とのことだ。名前通りに名古屋城の正面にあり、客室から素晴らしいキャッスル・ヴューを楽しむことが出来る。スポンサーも、ジャガー・ランドローバー・ジャパンやぺルノ・リカール・ジャパンなどの高級品を扱う企業。主催者の狙いは、高級ホテルで中部圏の富裕層を相手にアートを紹介するという感じだ。
このホテルは東京のホテル・オークラのように交通の便が悪いところにあるのが特徴。自家用車かタクシーを利用するのが一般的で、地下鉄の浅間町駅から歩くと15分くらいもかかる。本当に目的意識がないと暑い夏の日に行こうとは思わないだろう。多くのフェアは観客動員数を多くして入場料収入で利益を上げるビジネスモデル。交通の便のよい場所での開催が肝になる。本フェアも商業地の栄、伏見、錦あたりのホテルで開催する選択肢もあったと思う。それをあえて不便だがステイタスの高いホテルで開催したことからは、主催者の”アートに本当に興味を持つ人に来てほしい”というポリシーが明快に感じられる。参加ギャラリーにとって、鑑賞目的の人が多いと本当に買いたいお客様との接客が出来なくなることがある。本フェアの趣旨には100%賛成だ。主催者によると期間中約1870名もの人が来場してくれたそうだ。酷暑の中でも中部圏のアートに興味のある人はちゃんと来てくれるのだ。私ども関連では、名古屋に引っ越したお客様や、ワークショップ参加者との再会があったのが収穫だった。

しかし来場者がコレクション購入までの目的意識を持っていたかは別問題だろう。色々なところで書いているように、日本のアート・フェアは作品を鑑賞するイベントという意識を持つ人が多い。今回も、多くの来場者は鑑賞目的だった印象だ。もしかしたら高級デパートの上客向けのアートの特別鑑賞会という意識の人が多かったのかもしれない。
とくに私どもが展示した写真関連作品に関しては、まだ多くの人に鑑賞やコレクションの対象であることが認識されていないようだった。実は、写真ファンは現代アートに興味のない人が多い。今回は現代アートのフェアと銘打っていたので写真ファンはかなり少なかったのだと思う。もし来年開催するのであれば、写真分野のギャラリーをまとめるなどのアイデアを考えてほしい。近くの場所で写真だけのサテライト・フェアを行ってもよいだろう。そうすれば、写真ファンの集客につながると思う。写真関連のスポンサー企業候補は数多いのではないか。

さて今回は初めてのフェアだったが、主催者の運営オペレーションや広報活動は非常によかったと思う。搬入、搬出もスムーズにできた、観客動員やマスコミの反応も良好だった。しかし、一人前のアートフェアを目指す時に重要なのは、参加ギャラリーや展示作品のクオリティー維持なのだ。ハード面だけでなく、ソフト面の運営オペレーション力が問われるようになる。
海外の有名フェアの場合、事前にギャラリーの展示作品やテーマを審査する場合が多い。 新規のフェアは、最初は珍しいからギャラリーや顧客を集めることができるだろう。しかし、フェアの目玉作品や何らかのテーマ性がなければ話題性の維持や更なる集客は期待できない。ギャラリー側としても、多額の経費をかけている以上、ある程度の売り上げがあり、新規客の開拓が期待できなければ継続して参加しないだろう。景気見通しが悪い中、もはや広告宣伝目的で参加できる余裕があるギャラリーは数少ないのだ。
長きにわたって継続できるかどうかは、主催者の高い企画能力が求められるということなのだ。高いクオリティーが担保されていればフェアはブランド化する、良質なコレクターが集まり、売り上げも伸びるのだ。これが出来ないと、継続できてもよりローカル色が強い低価格のインテリア・アートの新作披露イベントになってしまう。もちろん地元密着のこのような選択肢もあると思う。

本フェアは、上記のように富裕層相手の高級路線を意識している。器やスポンサーは立派だったが、展示作品のレベルにはかなりばらつきがあったと感じた。現代アートをあまり知らないような高齢の来場者が、展示会場の窓越しの名古屋城の眺めが一番良かったと言っていたのが印象的だった。歴史や時代とのつながりが感じられないアート作品は作者の自己満足になるリスクがある。アートの門外漢の人の素直な意見は案外ポイントをついていると感じた。

主催者や実行委員の皆様、たいへんお疲れ様でした。今回の貴重な経験を生かして、来年以降に内容をよりレベルアップしたフェアを開催してください。酷暑の中、来場してくれた多くのお客様に感謝します。

まず写真集からは始めよう!
アート写真コレクションへの誘い

 

先週末に、I.P.C.のサマーレクチャーで写真集コレクションについて話をした。猛暑の中、10名余の熱心な人が来てくれた。参加者の皆さん本当にありがとうございました。
実は、写真集関係のレクチャーはずっと温めていた企画だ。アート写真と同様に、写真集を買ってみたいがその入り口が分からないという声が多くずっと気になっていた。 しかし、レクチャーの新プログラム構築にはとてつもない時間がかかるのでなかなか実現できなかった。

写真集といっても実は様々な種類がある。その中で作家の視点が明確に構築されており、それを見る側に伝えるために制作された本がフォトブックとして区別されている。
つまり大きく分けると、写真集は作家の自己表現としてのフォトブックと、作家のキャリアを参照する資料的な本がともに存在するのだ。集めるのはもちろん前者のフォト・ブック。最初は両者の区別は難しいかもしれない。最近は写真集のガイドブック本”The Photobook: A History Volume 1 & 2″(Phaidon刊)などが刊行されている。ここに収録されているのがフォトブックと考えればほぼまちがいがない。

フォトブックはどこが違うのだろうか。以前も紹介したが、フォトブックの代表作といわれる「The Americans」の著者ロバート・フランクの言葉がよく説明している。少し長いが引用してみる。「写真家は社会に無関心ではだめだ。意見は時に批判的でもあるが、それは対象への愛から生まれている。写真家に必要なのは博愛の気持ちで状況に対すること。そのように撮影されたのがリアリズムだ。しかしそれだけでは不十分で、視点を持つことが重要だ。この二つがあって優れた写真が生まれる」
視点の原点となる感情は様々あるだろう。その一つは、個人が持つ違和感だと思う。欧州のスイスから繁栄している戦後のアメリカに来たフランクは、その文化を目の当たりにしてなんかこの国はおかしいと感じたのだろう。その原因を探るべく情報収集を行って考えを深めたのが、グッゲンハイムの奨学金で行った全米の旅だった。彼は撮影後、1年間かけて作品セレクションを行っている。問題点を総合化して視点を明確にして発表したのが「The Americans」なのだ。「決定的な瞬間」から解放されたフランクの撮影アプローチだけが注目されがちだが、重要なのは彼が写真で探求した違和感を見る側に伝えようとした姿勢や精神なのだ。

写真集コレクションに興味ある人は、作家の視点を共有したいと考える人たちだと思う。たぶん作家と同じ問題意識を持って世界を眺めているのだ。生きていて自分のいだいた強い感情に対する答えを写真集の中に探しているのだろう。さて、フランクの精神を受け継いでいるのはどのような写真家だろうか。現代人は、「The Americans」の歴史的評価は理解できるが、時代が違うのでリアリティーを感じることはできないだろう。個人的な好みでいうと、ジェフ・ブロウス(Jeff Brouws)、エドガー・マーティンス(Edgar Martins)、アレック・ソス(Alec Soth)などは、カラー撮影だがフランクの流れを引き継いでいると思う。このあたりは様々な意見があると思う。今後、何らかの機会を設けて興味のある人と意見交換をしてみたい。

現在は、市場環境的にも写真集コレクションを始めるのに絶好のチャンスだ。長引く不況で、相場自体がかなり安くなっている。特に、数年前まで人気が高く高額だった和書はかなり安くなっている。円高と不況で外人コレクターが買わなくなったのが大きな要因と言われている。欲しかったが手が出なかった写真集でも入手できる可能性が高まっている。しかし、売る側も高値を見ているので、安くは売りたがらない。しばらくは取引が大きく減少する時期が続くのだ。時間が経過すると、必ずいまの相場でも売りたい人が出てくるもの。欲しい人にとって、これが買い場だと思う。また洋書も、80円近くの円高でかなり割安になっている。欲しかったが高くて諦めていた写真集があったなら、いま一度現在の相場を調べてみるとよいだろう。

目指せアート写真の世界
地方在住写真家の可能性

 

最近、地方の写真家の作品を見てアドバイスすることが多い。私が出張することもあるし、わざわざ上京してくれる人もいる。彼らは地元で活躍する商業写真家や、ハイアマチュアの人たちで、キャリアの一環としてアート作品に取り組みたいと考えている。だいたいの人が生活ベースを持った上で、自分のペースで地道に活動を続けている。作品を見る前に、市場の現状解説や、アート写真の価値観のことを一通り説明する。都市部の人よりも真剣に聞いてくれる印象だ。

彼らは全般的に心がオープンで、素直な気持ちで写真に取り組んでいる感じだ。そしてアドバイスを積極的に受け入れてくれる場合が多い。何か新しい分野のことを学ぶときには、自分を空っぽにして専門家の意見や解説を受け入れてみるのが有効だ。それにより、いままで気付かなかった自分が発見できたり、新しい価値観が生まれる。アート写真を目指す人の作品自体のレベルは、都市部でも地方でも大きくは違わない。それらの背景にある感動を、収集、集約して、さらに考えていく過程が重要になる。最終的にテーマを明確化して作品ポートフォリオとしてまとめていく。地方在住写真家の場合、シンプルなアドバイスで、テーマが顕在化したり、視点がひらめいたり、ステーツメントの内容が飛躍的に改善したり、作品作りの方向性が突然見えてくることが多い。たぶん、自分の心を開いて素直な気持ちで取り組んでくれるから、見えなかった色々なつながりが顕在化するのだろう。それは、複雑なパズルが解けたような感じで、写真を見る側にとって極めて心地より瞬間だ。

一方、地方在住写真家とは全く逆のタイプの写真家にも遭遇することがある。都市部に比較的多いだろう。彼らは、自分の中に凝り固まった考えや、好みの感覚があってそれを認めてもらうため、補強するために写真を見せにくる。アドバイスをしても、自分に都合のよいことだけを受け入れる。アートの世界は、個人の存在と自由が重んじられるはずだ。しかし不思議なことに、彼らは自分が感覚で良いと感じる写真を、他人も良いと感じるはずという思い込みを持っている。これは、多くの人が同質の価値観やモラル観を持っていた時代の名残を引き継いでいるのかもしれない。
戦後に自由と民主主義が導入されたことで、”同質性を前提とした日本人の文化”はもはや存在しない。同様に、個人の(美的)感覚も人によって様々になっている。90年代以降はさらにばらけている。日本社会でいま起きている様々な問題は、同質性は崩れているのに、多くの人が自分と同じモラル基準を持っているはずで、それに従うべきと考えるからだ。
アートは作品を通して人間どうしのコミュニケーションが行われること。そのコミュニケーションは、それぞれが違うことを認め合うのが前提だ。従って、みんな同じと考える人とは会話が成立しない。アートとしての写真を語りあう場で、永遠に不毛な平行線の会話が続くのだ。あるキュレーターは、運悪くそのような人と出会ったら、場の雰囲気を壊さないため逆に作品を徹底的に褒め倒すという。やや極端な対応だと思うが、気持ちはよく理解できる。

上記のように、作品制作の過程では思い込みにとらわれることなく、自由な気持ちで周りの意見を聞きながら、自分の内面を深く探求する必要がある。しかし、作品が完成するとこんどはまったく別の素養が求められる。一転して外界への積極的な働きかけが必要となるのだ。シャイな地方在住の人はこの部分が弱いことが多い。作家を目指すなら、これらの外向きの活動は仕事の一部であると認識してほしい。社会に存在する仕事には営業系が多いだろう。知らない人に会ってと話すのが苦手でも、営業活動に従事して実績を上げている人は数多くいる。なぜできるかと言えば、生活のために必要な仕事と割り切っているからだろう。作家を目指す人にとって、営業活動は作品制作と同じくらい重要な仕事だと理解してほしい。
特に新人の場合は、どれだけ自分を広くアピールして、多くの人をギャラリーに動員できるかにかかっている。最初はだれでも作品は売れないもの、興味を持って見に来る人の数が作家の将来性を占う目安になる。本人が行動して、それにギャラリー、友人、仲間の営業努力が重なることで、情報が広く多くの人に伝わるようになる。

日本のアート写真界の問題点は、プライマリー市場で継続的に活躍する作家が育たないことに尽きる。上記の理由から、新たな新人は東京だけでなく、地方部からも出てくる可能性が高いのではと感じている。今後も、東京以外でのワークショップ開催や、その後の作品フォローアップに取り組むとともに、彼らの作品を一番大きな東京市場に紹介するシステムを構築していきたいと思う。

地方都市での、レクチャーやワークショップに興味ある人はぜひご連絡ください。

アート写真の海外市場動向
進行する2極化傾向

今春のNYアート写真オークションの解説を近日中にサイトに追加する予定だ。

オークション全体の結果は予想以上に良好だった。
ササビーズ(Sotheby’s)、クリスティーズ(Christie’s)、フィリップス(Phillips de Pury & Company)の主要3社ともに売り上げ、落札率ともに昨秋よりも改善している。以前も書いたが、この成果は主要3社の出品作品の見事な選択と編集作業による。彼らは、売りたい人が持ち寄る作品をただ自動的にオークションに出しているのではない。市場にフレッシュな(過去に出品歴がない)、来歴の良い、人気作家のヴィンテージ・プリントを中心に、写真史を意識しながらカタログを編集、制作していく。そして、どの程度のオークションの目玉作品を持ってこれるかが担当者の力量になる。
今春は、クリスティーズが特に頑張った感じで、カタログは3冊となった。通常の複数出品者のものと、二つの単独コレクターのよるオークションを企画している。 残り2社は複数出品者のものだけ。出品数は現代アート系にも積極的なフィリップスが260点と頑張り、ササビーズは量より内容を優先させ173点だった。2社の総売り上げほとんど同じで、ササビーズは落札率が低い割に約563万ドルと検討。 フィリップスは90%超えの落札率だが約580万ドルだった。ちなみに、クリスティーズの複数出品者オークションの売り上げは約536万ドル。単独コレクターの2回を合計すると約814.8万ドルとなり、クリスティーズはNY春のオークションの売り上げ1位を獲得した。

貴重な優良作品を持っているコレクターは、上記の主要3社に出品すればよい。しかし、実際のところそれはごく一部の富裕層のコレクターたちだ。写真市場の中心は中間層の人たち。彼らのコレクションは、希少性が欠けるモダンプリントが中心になる。また、自分の好みで買っているので必ずしも市場の人気作家や人気カテゴリーでない場合があるだろう。実際、一部の現代アート系作家をのぞき、現存する若手、中堅写真作家の作品はほとんどオークションでは取り上げてくれない。
何年か前に、比較的活躍している中堅作家のモダンプリントの見積もりを大手業者の求めたことがある。彼らの提示してきた最低落札価格はかなり低くて驚いたことがる。その価格で売れても、送料、保険料、カタログ掲載料、手数料を差し引くと手元にはほとんど残らない計算なのだ。もし、売れない場合は経費倒れになる。これは暗に、オークションハウスによる出品を勧めない意思表示だと感じた。ただし、それはイメージもよるらしい。中堅作家でも、エディションが売り切れたり、 残り1枚になった人気イメージなら取り扱う場合が多いという。
またある有名写真家のメールヌード作品の落札予想価格を大手業者に確認したところ、プライマリーの販売価格の半分以下というとてつもなく低い評価だったこともあった。理由を聞いたら、いくら写真家が有名でもゲイ・テイストの強い作品は市場性がないので評価が低いという回答をもらった。

それでは売却の際に欧米の一般コレクターはどうするかといえば、中小のオークション業者に持ち込む込むことになる。スワン・ギャラリーズやブルームスベリー・オークションなどだ。これらの落札結果を見ると、大手オークションハウスが支配している市場とは違う世界が見えてくる。5月23日にスワン・ギャラリーズNYで行われた、フォトブックとアート写真のオークションの落札率は、約64%と約62%だった。(出品数は、128点と261点)また、5月18日にブルームスベリー・ロンドンで開催されたアート写真の落札率は約55%だった。(出品数は226点)大手の落札率と比べてかなり低い。全体の1/3は売れないのだ。実はこれでも1年前よりはかなり改善している。
つまり、市場は明らかに2極化しており、希少作品に対する需要は強いものの、いつでも買えるモダンプリントの売り上げは低迷しているということだろう。つい最近まで大ブームだったフォトブック・セクターに元気がないのも同じ理由から。 写真のモダンプリント以上にフォトブックは桁違いに流通量が多い。
富裕層はいつでも金を持っているが、中間層は間違いなく不況の影響を受けているようだ。なお日本から海外オークションに出す場合は、不況で売れない可能性の他に円高が大きく影響してくる。5年前、1万ドルは約100万円以上だったのが、今では約80万しかないのだ。視点を変えると、もし円の余剰資金があるのなら、カテゴリーを絞り込んで海外作家の中長期的コレクションを開始する絶好のタイミングであるともいえる。
真剣にご興味のある人はぜひお問い合わせください。ご相談に乗ります!

「Publish Your Photography Book」写真集出版のためのノウハウ本

現在は世界的に写真集ブームの時代だ。いまや写真集は自己表現であると広く認識され、多くの人がコレクションするようになった。またテクノロジーの進歩で出版の敷居は以前よりはるかに低くなっている。有名写真家でなくても、自分の写真集出版はもはや夢ではない。しかし、どのようにすれば自分の本が出せるかはネットを調べても詳しくは分からない。 本書「Publish Your Photography Book」(2011年、Princeton Architectual Press刊)は、一般にはあまり知られていない写真集制作と出版のプロセスを解説したノウハウ本。狭い客層のファインアート系中心に書かれているが、客層の多い大きなテーマの本にも触れている。写真集コレクターには、最初のセクションに書かれているレアブックのガイドブックのリストが役に立つだろう。私も知らなかった本が何冊かあった。

著者は、ダリウス・ハイムス(Darius Himes)と、メアリー・ヴァージニア・スワンソン(Mary Virginia Swanson)。ハイムス氏はオンライン書店のphotoeyeの創設時のエディター、またRadius Booksの共同創業者でもある。スワンソン氏は有名なファインアート写真のコンサルタント。写真家からの相談を1時間300ドル(約2.5万円、ただし最低2時間)で行っている。これは米国の弁護士の相談費用と同じ。アート写真市場が小さい日本では到底考えられないだろう。状況の違いに本当に驚かされる。本書の値段は29.95ドル(アマゾンならもっと安い)。 彼女の名前だけで購入する人も多いのでないか。

本文の内容はいたって平凡だ。絶対に成功する写真集の秘訣などは書いていない。
内容は6つのセクションにわかれている。写真家が写真集出版に関して検討しないといけない、版元探し、制作手順、出版コスト、契約、デザイン、販売の解説が網羅されている。出版社に提出すべき書類のリストも記載。ケーススタディーのセクションは、アレック・ソス、ジョン・ゴセージなど7人の作家とのインタビューで構成されている。その他、作家、出版人、デザイナー、編集者などの幅広い分野の業界関係者とのインタビューも収録。資料として、デザイン印刷、マーケティングのスケジュールの見本。出版に際しての基本をまとめたワークシートまでが用意されている。
ワークシート最初の質問は、”なぜあなたは写真集を出したいのか?”、”どのような本にしたいか1行で書け”。シンプルだが最も重要な点だろう。自分の思いを本にする理由を明確に語れないといけないのだ。アーティストを目指す人へのノウハウ本の最初に、”あなたにパッションがあるか?”と書いてあるのと同じことだろう。

ノウハウ本なので英語の本文はとても読みやすい。辞書片手だったが比較的短時間に読破できた。自分が興味があるセクションから読んでも問題ない。本の形式の、出版のためのチェックリストと関連資料集と考えてもよいだろう。
私もやや期待したのだが、作品のコンセプトやテーマの具体的なまとめ方などは書いていない。よく考えると、これは個別の写真家で全て違うから簡単に解説などできないだろう。ここについてはコンサルタントに相談料を支払わんければアドバイスはもらえないようだ。

興味深かったのは、アート系出版でもマーケティングが重んじられること。出版時に購入してくれるターゲットを明快にすることを求めている。過去の同様の出版例から予測するまでが必要とされている。誰が買ってくれるかの想定が明確にできない場合は中堅、大手での出版は難しいようだ。アート系写真集の印刷部数は有名写真家でもだいたい3000部とのこと。ネイチャー系など、大きなポピュラーなテーマの写真集と比べてかなり敷居が高そうだ。
しかし、写真家にとって実際に出版しないと売れるかどうかはわからない、というのが本音だろう。米国でも状況は同じで、本書では自費出版や、Zine、オンディマン印刷などを通して写真家が写真集を世に送るチャンスが増えていることも説明している。アレック・ソスやライアン・マッギンレーも自費出版からチャンスをつかんでいるのだ。
そして、本書内で一貫して強調されているのが写真家本人の自助努力の重要性。当たり前なのだが、自分の写真集は本人が率先してマーケティングを行わなければ誰が動いてくれるかということだ。出版社は数多くの出版プロジェクトを抱えている、 本人の熱意がないかぎり必要以上に動いてくれることはない。

本書は写真家が出版社とがどのように仕事を進めていくかを書いた本だ。読み続けていて感じたのは、これはギャラリーと写真家との関係とまったく同じだということだ。例えば上記のマーケティングの自助努力を写真展に置き換えると、写真家が積極的に動かない写真展は集客や売り上げが悪い。本人の熱意が、ギャラリーの動きと重なることでマスコミや世の中の人々が複合的に反応してくる。世の中にはヴィジュアルは氾濫している。いくら作品が優れていてもそれだけではその他の中に埋もれてしまうのだ。本書は、キャリア・レベルがセミプロ期で作家を目指す写真家には、商業ギャラリーへの営業の手引としても十分に使えると思う。

フィーリングを意味づける
写真を考えるためのヒント

自分自身で考えることは当たり前だ。しかし、日本ではそれが当たり前でないという意見がある。その理由は、わたしたちは伝統的に世間の中に生きてきたから。そのしきたりに従って生きていれば特に個人が自分で考え、決断を下さなくてもよかった。戦後には世間は会社組織に置き換わり、終身雇用崩壊後は「空気」が代用するようになったというのが最近の識者の主張だ。自分で考えて判断する習慣がないから「空気」を読んでそれに従おうとするわけだ。意見を求められると、空気に合った発言をしている識者の主張を取り入れて自分の考えのように話す人が多い。受け売り知識なので、妙にすっきりした断定的な意見になる。これらの分析は、実生活での経験と照らし合わせても納得する部分も多い。この辺のことは、最近のベストセラー「日本辺境論」(新潮新書 内田樹 著)や、「検索バカ」(朝日新書 藤原智美 著)に書かれている。興味ある人は読んでほしい。

私は、日本で感覚重視の写真作品が多いのは、上記のような歴史的な背景があるからではいないかと疑い始めている。学校ではテーマについて徹底的に考えることを教えない。それでもまったく問題視されない理由もここにあるだろう。そもそも一般人が個人として考えを追求する必要はなかったのだ。しかし、作家を目指す人にはこれは大きな弱点になる。自分が見て感じたことを総合化しテーマを明確に提示しないと見る側にメッセージは伝わらない。アート作品としての評価が非常に難しくなる。

もし考えるのが苦手なら、いっそ海外作家の作品テーマとのつながりを考えることからはじめてもよいと思う。色々なきっかけで訓練すれば自然と慣れてくるはずだ。
現在ブリッツ・ギャラリーで開催している下元直樹の作品で説明してみよう。
彼は抽象表現の絵画が好きで、同じような写真を撮影しようとしたという。作品をいきなり絵画との関連で語ることもできるだろう。しかし、彼は写真家なので写真史との関連で語られた方が立ち位置が明確になる。彼の作品のベースになるのはアーロン・シスキン(1903-1991)の作品だ。シスキンは、テーマがないこと自体をテーマにしている作家。写真で絵を描いたともいわれる。町の壁面などを絶妙なフレーミングとクローズアップで抽象的に撮影している。写真界では理解されず、抽象表現主義の画家が最初に評価した。シスキンの70年代の作品をまとめた写真集「Places」(Light Gallery1976年刊)には、アーティスト・ステーツメントも作品タイトルがない。写真には撮影場所と撮影地の制作番号のみが記されている。下元作品は、まさにカラー版のシスキンだ。
抽象表現主義絵画とシスキンの写真との違いは、このカラーとモノクロということ。これをつなげる写真家としてウィリアム・エグルストンが登場する。彼は、最初はモノクロで作品を制作していた。しかしテーマの一部の米国ディープサウスの色彩はモノクロで表現できないとカラーに取り組んだ。下元も東北の漁村の抽象的でカラフルなシーンを的確に表現するためにカラーで撮影しているのだ。
もうひとつのつながりは、ドイツ現代写真の重鎮ベッヒャー夫妻だ。彼らのタイポロジーは、作品をグリッド状に組み合わせることで互いを関連づけ、比較可能にしている。ドキュメント写真をアート作品としてコレクターの部屋に飾りやすくした、ともいわれている。下元作品のアプローチはまさにこれそのもの。彼の作品のベースは寂れた東北の漁村のドキュメント。影が出来ないように曇天の日を選び、できるだけ同じポジションでの撮影を心がけている。ギャラリーではベッヒャーを意識して複数作品をグリッド状に並べて展示している。

このように海外作家の仕事との関連から作品の様々な視点を引き出したり、明確にすることは可能だ。現代写真はその上で時代との接点が重要だ。それは、経済成長から取り残された東北人のメンタリティー。日本の伝統的美意識とのつながりが見られる点も忘れてはならないだろう。そして最後に、彼が撮影した海岸地帯が今回の大津波で流されてしまったことで作品は時代の記憶と重なった。
作家を目指す写真家には本作のコンセプトとテーマ性をぜひ見てもらいたいと思う。

商業写真家7人による”infinity”展が開催 アートとしてのファッション写真は誕生するか?

 

長年、アートとしてのファッション写真を専門にギャラリーを運営している。
最初は海外の有名ファッション写真家の作品を日本に紹介し、過去10年くらいはこの分野の日本人写真家の発掘をテーマに活動してきた。残念ながらいままでに目立った成果を上げることはできていない。
数多くの情報を収集し、現状分析を行い、日本でファッション系写真家が育たない理由を研究してきた。最近になり、その理由の一つは日本にはアートとしてのファッション写真の歴史が存在しないからだと分かってきた。彼らがオリジナルであるかどうかを判断する基準がこの国には存在しないのだ。自分のポジションを海外の写真史に真剣に求める人も少なく、多くは、ただ欧米の表層的なスタイルを取り入れただけだった。
日本のファイン・アート写真と商業写真との関係は欧米とは違う。単純にファッション写真だけを欧米の流れで評価するのにも無理があったのだと思う。 また90年代は、感覚重視の考え方が中心だったことも影響し、”どの写真が好き”というような個人の好みに単純化されてイメージが消費されていた。
感覚重視は、価値の序列を否定すること。アート写真市場はオリジナルであることで値段を差別化する。従って、日本ではアートとしてのファッション写真は成りたたなかったのだ。残念ながら、90年代以降に作品をアートして発表した多くの商業写真家の活動は続かなかった。

しかし、21世紀になり状況は大きく変わってきた。国によりスピードは違うものの、90年代後半ぐらいから、情報化、グローバル化が進み、大きな物語がなくなっていった。それは人々の価値観とともに、夢やあこがれが多様化したことを意味する。同時にファッション写真も多様化して、より広い意味でとらえられるようになってきた。 今や単純に洋服を見せたり、時代の気分をあらわすだけではなく、時代性が反映された写真をすべて含むようになった。
作品の基準をファッション写真の歴史だけでなく、他分野の写真、コンセプト重視の現代アート、パーソナルワークに求めることも可能になってきた。もはや独自の歴史とのつながりだけが重要ではなくなったのだ。
極論すれば、写真家が自分のつながりやポジションを認識できて、そのメッセージが時代との接点があればもはやすべてが広義の”アートとしてのファッション写真”といえるのだ。
またグローバル化により、国を超えた共通の価値観を以前より容易に発見できる時代になってきた。
商業写真家がアート作品に取り組む時、かつてファイアートの定番と思われていたドキュメント系のモノクロ写真にシフトすることが多かった。しかし、もはやその必要はない。ファッション、広告、ポートレートなどの経験を生かし、その延長上での作品制作が可能になってきたのだ。

5月31日から商業分野で活躍する写真家のグループ展”infinity”が広尾のIPCで開催される。参加するは、舞山秀一、北島明、半沢健、中村和孝、ワタナベアニ、魚住誠一、小林幹幸の7名。時代の変化を感じとって、自分独自にその可能性を追求しはじめた人たちだ。主催者の小林氏によると、これから最低5回は開催したいという。この継続する姿勢は高く評価したい。なぜなら、写真家は展示を通して自分のポジショニングの確認とともに、そのメッセージが的確に見る側に伝わっているか、それが自分のエゴの押し付けになっていないかの検証が必要となる。広告と違い、アートの世界では自らが展示を通して最終顧客の反応を見極めなければならないのだ。これは長い試行錯誤の繰り返しとなる。継続できるかどうかで自作への思いの強さも再確認できる。途中に参加者の入れ替わりもあるだろう。しかし、顧客とのコミュニケーションが意識できた写真家はアーティストとしての自らの可能性を確信できるだろう。”infinity”展は、単なる商業写真家のグループ展ではない。私たちが日本における”アートとしてのファッション写真”誕生に立ち会える、現在進行形のプロジェクトなのだ。

アート写真市場の現状 長引きそうな心理的な影響

東日本大震災が起きて2カ月以上が経過した。アート写真の世界もやっと落ち着きを取り戻したようだ。現在は、ほとんどの業者が通常業務を行っている。しかし、来廊者数はまだ大震災前には戻ってない。ギャラリーでは、鑑賞目的の人が大きく減少している。特に有名作家以外は苦戦しているという。アート写真の主要顧客は中間層だ。まだ彼らのセンチメントは本格回復には程遠いのだ。

写真作品は、写真家寄付による販売イベントではよく売れているという。作品相場がある人とない人が、すべて均一価格で販売することには様々な意見があるだろう。今後はより市場性を考慮したオークション形式でのチャリティー販売もあるそうだ。同じチャリティーでも市場価格で販売して一部を寄付する形式だと動きは鈍いという。 要はチャリティーにより新たな需要が創出されるわけではなく、作品次第ということだ。

アート系の写真集の状況も厳しいようだ。洋書専門店での店頭売り上げはかなり苦戦しているという。5月の連休明けには代官山の専門店がクローズ。目利きのコレクターが経営していた地方の専門店も廃業したという。ネットでの売り上げは特に大震災後も大きく変わっていない。昨年から緩やかな売り上げ低下傾向が続いているが、特にショック的な売り上げ急減は発生していない。ただし円高をより享受できるネット購入の傾向が強まっている可能性がある。

ファッションやインテリア感覚で写真集や写真を買っていた人は、いまのところ様子見を決め込んでいるようだ。しかし、まったく売れなくなったわけではない。来廊者の減少ほどには、作品売り上げは落ちていない。写真が好きでコレクションしていた人は適正価格の気に入った作品があれば相変わらず買っている。最近は80円に近い円高なので、海外作家の作品や洋書の動きは悪くない。
全体をまとめると、もともと不況だったのが大震災をきっかけに状況がやや悪化した感じだろうか。

その他、ワークショップ関連は特に大震災の影響は感じられない。アート写真関連講座の参加者やポートフォリオ・レビューの依頼も減っていない。復興時にはアーティストの役割が重要になる。日本ではもともと新しい生き方の提示が求められていた。今後、アーティスト志向の人の動向がより注目されるだろう。
写真家の作品発表意欲も特に大きく落ち込んでいないようだ。運営のお手伝いをしている広尾のIPCのレンタル予約も、節電のある夏場を除いて、 秋以降はかなり入ってきている。写真展開催を考えている人は出遅れないようにしてほしい。

今後のギャラリーの課題は、15%節電がいわれる夏場の営業をどうするかだ。マスコミ等ではエアコン設定温度28度といわれている。これだと多数のスポットライトを使用するギャラリーでは来廊者に快適に作品を見てもらうのは困難だと思う。今年の夏は長期休廊というギャラリーも出てくるだろう。
今はいったん平時に戻った気がするが、夏の節電、長引く原発事故などがあるかぎり心理的な影響は続きそうだ。もしかしたら、このような不透明な状況が定常化するかもしれない。長期夏休みで新しい時代をサバイブする中長期戦略を考えるのも必要かもしれない。

ソウル・フォト2011(Seoul Photo 2011)アジアのアート写真最前線 Part-2

ソウル・フォト2011のレポート第2弾です。

中国や韓国には欧米や日本のように銀塩写真の歴史がない。写真独自に発達してきた市場は存在しないのだ。複雑な政治、社会環境で自由に写真が撮影できる状況ではなかったのだろう。だから、ソウル・フォトの意味合いは欧米のフォト・フェアとは違う。欧米では現代アートや絵画などと、写真は全く別の歴史と伝統がある。その延長上にアート・フェアとフォト・フェアが個別に存在する。韓国では、その境界線はかなりあいまいだ。ソウル・フォトは、ここ10年で表現メディアとして一般化した写真を使用して制作された作品を扱うギャラリーのフェアなのだ。たぶん、彼らには写真専門ギャラリーというは認識はないと思う。

前回に紹介したように、大陸のテイストは繊細な感覚を持つ日本人の好みとはかなり違う。韓国では、少し前までモノクロ写真はドキュメントでアート表現ではないと考えられていたようだ。今回のフェアでもデジタル出力によるモノクロの大判作品の展示はあったが、小振りの銀塩写真を展示する地元ギャラリーはほとんどなかった。しかし、状況には変化の兆しも。それは、今回招待作家だったベー・ビョンウがモノクロで作品制作を行うようになり、その可能性に気付いた人が増えてきたという。いまでは、現代アート写真の新たな表現としてモノクロの写真作品が認知され始めたとのことだ。

会場ではそんなコレクターの好みを意識した現代アート風の、インパクトが強く、カラフルな大判作品が数多く展示されていた。作品のレベルは様々だ。仕上げ面では特に問題ないものの、コンセプトが弱い「壁紙」のような作品も数多く存在していた。しかし不思議なことに、それらのうちかなりの作品が売れているのだ。どうもこの状況は、当局がビル新築時に必ず文化的スペースを設置するようにと指導しているという、韓国市場の特性がかなり影響しているらしい。要は、大きなサイズの作品を求める企業ニーズが相当あるということ。あるギャラリーのディレクターに聞いたら、対企業の売り上げ比率は約20%以上あるという。金額ベースの比率はもっと高いのだろう。日本の写真ギャラリーでは考えられないことだ。購入の判断基準は、作家のアート性だけではなく、ギャラリーと企業との人間関係やコネクションも大きく関係しているらしい。だから、日本のギャラリーが単に大判作品を持ってきても決して売れないのだ。もちろんオークションで取引されるようなブランド作家の大作なら話は別だろう。色々と情報収集してみると、個人コレクターが求める作品サイズはそんなには大きくないようだ。たぶん企業にコレクションされた作家がブランドとなり個人が購入するのでないか。ここにもギャラリストとの人間関係が重視されているようだ。
欧米では、富裕層がコレクションするのが現代アートで、アート写真分野では中間層がメインプレーヤーだ。彼らはアーティストの作家性やメッセージを自ら判断、評価することが多い。しかし、韓国ではまだアート写真に特化した中間層のコレクターは少数で、企業と富裕層が人間関係とブランドで写真作品を買っているようだ。作品の評価基準は、ヴィジュアル的にきれい、面白い、カラフル、奇抜なモチーフ、目新しい制作方法なのだろう。歴史がないことから、オリジナルであることの基準がまだ明確ではないようだ。表現は自由だが、まだ洗練されていない感じだ。

さて、韓国市場は上記のような状況だが、今回のブリッツの展示は、小振りのファッション系の写真が中心だった。他のギャラリーと比べてかなり個性的な展示だろう。実は、アジア地域でも私どもの扱うファッション系写真に可能性があると考えているのだ。現在の富裕層コレクターはともかく、もし中間層コレクターが育ってくると彼らはソウル・フォトで地元ギャラリーが展示しているような作品にリアリティーを感じないのではないかと考えている。ファッションの意味だが、それはカッコいい写真のことだ。もう少し難しく説明すると、共同体社会のウェットなしがらみから解放されたいという、ドライで自由な感覚が表現されている写真作品のことなのだ。つまりイメージ自体ではなく、その背景にある思想やライフスタイルを重要なセールスポイントとしている。
儒教的精神が強かった韓国でも、核家族で育った若者の中にはドライな人間関係を求める層も増加しているという。大家族的な伝統的文化との軋轢が生まれつつある状況は容易に想像できる。これは、アメリカン・カジュアル・ファッションのブランド戦略と類似しているかもしれない。実際、ソウルの街中で見かけるファッションや関連広告はアメリカン・カジュアルが中心になっている。それらを好む層は、ドライな感覚のモダンな写真に魅力を感じるのではないだろうか。
実際、今回主要作品を展示したマイケル・デウイックの写真には現地のギャラリストたちも魅力を感じていた。あるギャラリストは、ドライでクールな雰囲気を持つマイケル・デウイックの世界に若い世代は共感はするだろう、しかし最低でも2000ドル以上する作品は高額でなかなか売れないと話していた。これは日本と同じ状況だと感じた。市場拡大のための課題はやはり値段だろう。欧米写真家の作品はまだ高価。同じようなテイストを持つアジアの若手や新人なら可能性は十分にあると思う。どちらにしても、作家と中間層のコレクターの育成のために地道な啓蒙活動の継続が必要なのだと思う。

ソウル・フォト2011(Seoul Photo 2011)アジアのアート写真最前線 Part-1

 

先週末に開催されたソウル・フォト2011(Seoul Photo)に参加してきた。とりあえず速報をお伝えしよう。
このイベントは今回で4回目になるアジア最大級のフォト・フェアだ。昨年の来場者は約47,000人だったとのことだが、今年もかなり混雑していた。展示者は昨年の22から31に大きく増加、新たに経済発展が続いている中国のギャラリーが多く参加している。日本からの参加ギャラリーはブリッツのみだった。(ブックショップ部門には小宮山書店さんが参加している)主催者によると東日本大震災の心理的影響による参加キャンセルがかなりあったようだ。
会場では本当に多くの参加者、入場者から日本への見舞いの言葉をもらった。今年は大震災復興支援のために、「Japan Again」というチャリティー販売の特別ブースが設置されていた。個人的には、もっと多くの日本のギャラリーが元気な姿を見せてほしかった。ソウル・フォトはアジアのアート写真市場で韓国のハブ化を目指して開催しているという。アジア地域での、日本の経済、政治面の存在感低下がいわれて久しい。アート写真分野においても同じような状況になりつつあるようだ。

今回は中国の存在感を強く感じた。中国からギャラリーとともにコレクターも数多く来ていた。彼らは韓国の現代アート的な大判作品よりも、モノクロの小さな銀塩写真に興味を示していた。少なくとも、彼らは韓国人コレクターよりは欧米的な感覚を持っているようだ。
中国を代表するアーティストの王慶松(ワン・チンソン)は、大判作品4点が専用ブースに展示されていた。本人も来場していたことから多くの来場者の注目を浴びていた。何と1点3億ウォン(約2200万円)の作品2点が売れたとのことだ。そのせいか、ご本人はずっと上機嫌で気軽に記念撮影に応じていた。
昨年は、全般的に作品が売れている印象はなかった。今年は一転して地元作家中心にかなりの数が売れていた感じだった。3日目終了時点まで、約60点以上に赤丸シールが付いていた。

大陸のテイストは、繊細な感覚を持つ日本人の好みとはかなり違う。カラフルで大きな作品が好まれるようだ。中国や韓国には欧米や日本のように銀塩写真の歴史がない。絵画や現代アート分野の作家が写真を表現方法に取り入れて市場が展開していったそうだ。今年もコレクターの好みを意識した現代アート風の大判作品が数多く展示されていた。多くが、欧米ではあまり見られなくなったアクリル版への直接貼りだった。しかし、現代アートの要である作品コンセプトや時代性はやや弱いと感じた。この点が、現代中国の変化をテーマにする王慶松とは決定的に違う。
私は市場特性を意識した作品展示の必要はないと考えている。今年も、11×14″から20X24″位のサイズの作品を展示。マイケル・デウィック、トミオ・セイケなど、大震災チャリティー関係で横木安良夫、下元直樹だった。コンセプトが明快な写真作品は、サイズが小さくても、メッセージがあいまいな現代アート作品より優れていると思う。面白かったのは、多くの人がブリッツを日本のギャラリーだと気付かなかったこと。ステレオタイプの日本的写真を紹介していなかったからだろう。
アート写真の歴史と伝統は国ごとに違うし、独自に発展している。あえてその違いを地元に見せることもフォト・フェアに参加する外国ギャラリーの役割だと思う。
なお韓国写真事情と市場の分析は近日中にお届けします。