夏休み期間の営業について
各種相談会、イベントを開催!

まず最初に念のため”Heliotropism”展の会期延長を伝えておきたい。
同展は、会期中にわたって、豪雨、酷暑、台風に見舞われたことから
作家の提案で会期を8月12日まで延長している。まだ見てない人はどうかお見逃しなく!

さて商業ギャラリーを経営していると、どうしても作品販売と、写真展の運営・企画の業務を優先せざるえない。今年は”ROCK ICONS”展、”Heliotropism”展では、普段はセミナーなどを行う日曜も営業している。8月の夏休み期間には、普段は時間が取れなくてできなかったワークショップ・相談会を集中的に開催したい。アートは大衆向けの娯楽ではない。アート写真リテラシー向上に興味のある人を対象に考えている。全くの素人というよりは、ある程度の経験や知識がある初心者から中級者向けだと思う。多くの人に分かりやすいようなイベントではなく、知的好奇心が高い人向けのマニアックでディープな内容のイベントとなる。
複数人数のグループ、仲間などにも対応していく。興味ある人はぜひ参加してほしい。

(写真鑑賞が趣味の人・フォトグラファー、キュレーター向け)
・「写真の見立て教室」開催
今年も開催します。
ブリッツは日本の新しいアート写真の価値基準として限界芸術や民藝の写真版としてクール・ポップ写真を提案しています。
今回もその考え方をギャラリストが最新の実例を提示しながら紹介します。この提案に興味を持っている、意見交換に興味のある人はぜひご参加ください。

開催日時:8月19日(日) 午後2時~
場所:ブリッツ・ギャラリー
参加費:1000円
講師のスケジュールの関係で今年はお盆期間の開催となります。
参加希望者が少ないと延期になる場合があります。

(アート写真コレクター向け)
・オリジナル・プリント無料鑑定
お持ちの写真作品の価値を無料で鑑定します。売却希望者には個別アドバイスを行います。予約制です。

・フォトグラフィー・コレクション無料相談
アート写真を買いたい初心者向けの個別相談会です。
資産価値を持つコレクションの構築法や考え方をアドバイス。
インテリアへの作品展示の提案もします。予約制です。

(フォトグラファー向け)
・ファインアート・フォトグラファー講座を開催
こちら有料になります。
参加希望者には夏休み期間中に個別で開催。
二人以上のグループでの開催も行っています。予約制です。

内容は、ファインアート写真の定義、日本市場の現状分析、デジタル時代の市場展望、ファインアート系写真家の実例研究、参加者の作品の評価、アドバイスです。

下記ウェブサイトの”をご参照ください。
http://www.artphoto-site.com/seminar.html

・ポートフォリオ・レビュー/コンサルテーション開催
過去にファイン・アートフォトグラフィー講座を受講した人が対象です。こちらは有料になります。予約制です。

下記ウェブサイトの”その他”の項をご参照ください。
http://www.artphoto-site.com/seminar.html

(お問い合わせ・お申し込み)
上記相談会・レビューは以下の日程で予約制で行います。
期間:8月13日~8月下旬まで
時間:午後1時~6時

ご予約・お問い合わせはすべてEメールでお願いします。
“「写真の見立て教室」参加希望”、”オリジナル・プリント無料鑑定希望”など件名、希望日を明記のうえで
ご連絡ください。

info@artphoto-site.com

“Heliotropism”のメッセージを読み解く
異常豪雨や酷暑もテーマとつながっている!

ギャラリーでは、テリ・ワイフェンバックとケイト・マクドネルの二人展の“Heliotropism”を開催している。
会場でよく聞かれるのは、ケイト・マクドネルの作品タイトル“Lifted and Struck”の意味。そして、作品解説に書かれている、ネイチャー・ライティング系作家のアニー・ディラードの著作「ティンカー・クリークのほとりで」の世界観を写真で表現するの意味だ。これらが難解なのは私どもも承知しているので、色々なところで解釈を書いたり話したりしている。たぶん、それを読んでの質問でもあるだろう。
風景写真では、文脈の中で写真家のメッセージを読み解くことがほとんどないだろう。それは日本だけでもない。ある外国人来場者は海外でもテーマ性を明確に提示する自然風景がモチーフの写真は少ないと言っていた。多少は過去の解説の繰り返しになるが、いま一度ケイト・マクドネル作品の説明をしておこう。

Median, 2009 ⓒ Kate MacDonnell

作品タイトル“Lifted and Struck”は、彼女が本作で表現しようとしているアニー・ディラードの著作「ティンカー・クリークのほとりで」から引用されている。

I had been my whole life a bell, and never knew it until at that moment I was lifted and struck.
(“Pilgrim at Tinker Creek” Annie Dillard(1974年刊))

ここでのbellとは、広がった逆カップ状の鐘、もしくは鈴のようなものだとろう。“Lifted”は“Lift”の過去形・過去分詞で、持ち上げられた。“struck”は“strike”の過去形・過去分詞で鳴らされたという意味になる。

全文を直訳すると、
私のいままでの全人生はベルでした、しかし持ち上げられて鳴らされるまでそれに気づきませんでした、

となる。まるで禅問答のようだ。海外の英文による解説を探してみた。かなり有名な文章なのだろう、英語圏のウェブサイトに、膨大な数の個人的意見や解説が発見できた。解説自体も本文同様にかなり難解なものが多かった。その中で私が反応したのは以下のような解説だった。

“あなたが求めることを止めたとき、世界はあなたが探していたものしか見せてくれない事実に気付いた”というもの。これをさらに意訳してみると“私たちは自分の見たいものしか見ていない”、言い方を変えると“自分のフレームワークを通してしか世界を見ていない”のようなことではないか。

実はこの文章はいきなり登場するのではない。これは、女の子がティンカー・クリークのほとりで「内側から光る木」を発見したことがきっかけで起こった反応なのだ。女の子は作家自身と重なるのだろう。「内側から光る木」は原文では“the tree with the lights in it”となる。調べてみると、雷が木に落ちると、木の幹の中が燃えることがあるそうだ。どちらにしても極めてまれに起こる現象、自分の今まででの人生で出会ったことがないシーンに直面したことで、作者は自らを直感的に客観視できたのではないかと想像できる。以前にも述べたが、立花隆が”宇宙からの帰還”で書いている、宇宙から暗闇の中に浮かぶ地球をみた宇宙飛行士が直感的に神の存在を感じた、のような経験ではないだろうか。
これまでの説明で、マクドネルの、アニー・ディラードの「ティンカー・クリークのほとりで」の世界観を写真で表現するの意味が多少は理解できるようになるのではないか。

以前に、彼女は既存のどんなシーンにもとらわれないヴィジョンを持っており、いまの宇宙や自然界のどこかでで発生しているが、誰も気付かない、見たことがようなシーンを探し求めている、と解説した。それこそが、彼女にとっての、森の中で「内側から光る木」を探す行為なのだ。前回も書いたが、今回の展示作品はそのような一種の求道の旅の中で「はっ、ドキッ」とする瞬間を撮影したものなのだろう。しかしマクドネルは、まだディラードの「内側から光る木」のような強烈なインパクトがあり、意識が瞬間で裏返るようなシーンには出会ってないのだろう。本作は彼女の現在進行形のライフワークで、これからも「内側から光る木」を探し求める旅は続くのだ。彼女にとってその撮影旅行自体が作品であって、それに意味を見出しているのだろう。ぜひ、上記の作品解説を含んだうえで、いまいちど“Lifted and Struck”を見てみてほしい。

本展は、二人の写真で重層的なテーマを見る側に提供している。マクドネルは、人生で出会ったことがないシーンを探し求める。これは宇宙を集中して観察する行為に他ならない。これこそは西洋社会の自然観を象徴しているといえるだろう。
一方で、ワイフェンバックの”The May Sun”は俳句のような写真作品。伊豆の山河で自然に神々しさを感じるという、古来の日本の自然観が反映されている。
西洋と古来の日本の自然観を対比させているのは、神が創造した自然を人間が自由にコントロールできるという考えの背景にある西洋の自然観、つまりその延長上の化石燃料を燃やして経済成長を続けることが、いまや地球の温暖化などの顕在化で持続できないという問題提起がある。最近の異常豪雨や酷暑は温暖化と関係があるといわれている。
しかしワイフェンバックは、単純に世界の人々は古の日本の自然観を見習うべきだとは考えていない。私たち日本人も、明治以降は自然と人間が一体という優美の美意識を忘れて、西洋の考え方を取り入れて経済成長を果たてきたのだ。彼女には、近代社会では生物と自然との関係のバランスが崩れて、一方へ傾きすぎていると認識があるのだと思う。西洋の自然観一辺倒になったので、そろそろ東洋の自然観の方への揺り戻しが必要ということだろう。
私は専門家でないので詳しくは触れないが、その背景には地球と生物は相互に関係しあいながら環境を作り上げている、という思想があると想像している。

「Heliotropism」
テリ・ワイフェンバック / ケイト・マクドネル
2018年 6月1日(金)~ 8月5日(日)
1:00PM~6:00PM/ 休廊 月・火曜日(本展では日曜も営業) / 入場無料
ブリッツ・ギャラリー
http://www.blitz-gallery.com

 

 

“BOWIE:FACES”展が名古屋に巡回決定
鋤田正義スペシャルトーク開催!

 

2017年春に東京の3会場で行い好評だった”BOWIE:FACES”展。9月に名古屋に巡回することが決定した。会場は納屋橋 高山額縁店。会期は9月8日(土)~16日(日)までとなる。

本展では、テリー・オニール、ブライアン・ダフィー、鋤田正義など7名の有名写真家による、1967年~2002年までに制作されたデヴィッド・ボウイの珠玉のポートレート、写真家とのコラボレート作品約30点を紹介する。ボウイによる9枚のアルバムのオリジナル写真、および関連するアート作品が含まれる。

参加写真家は、ブライアン・ダフィー(Brian Duffy)、テリー・オニール(Terry O’Neill)、鋤田正義(Masayoshi Sukita)、ジュスタン・デ・ヴィルヌーヴ(Justin de Villeneuve)、ギスバート・ハイネコート(Gijsbert Hanekroot)、マーカス・クリンコ (Markus Klinko)、ジェラルド・ファーンリー (Gerald Fearnley)。なお彼ら全員が、昨年春に東京展が行われたヴィクトリア&アルバート美術館の”DAVID BOWIE is”に協力している。

会場では幅広い価格帯のオリジナル・プリントを展示販売する。中心価格帯は、10~30万円。しかし憧れの鋤田正義作品も、一部の小さいサイズの作品だと、額・マット込みで約3万円から、ブライアン・ダフィーのあの有名作“アラジン・セイン”も、LPジャケットのマットサイズのエステート・プリントならで約2万円購入可能。

東京展では、初めてアート写真を購入したという人が多数いた。実際に買うかどうかは別にして、買おうと思って会場に行くと展示作品への興味が一段と増す。コレクション初心者は、提示されている写真の価格が適正なのかが判断できないだろう。まずは買うつもりになって、作品を色々と見比べて、情報を集めていくと、自分なりの相場観ができてくるのだ。販売価格が、割安、割高、適正かがなんとなくわかってくる。高額作品は、現存するエディション数、イメージの人気度、サイズなどの高くなった理由がある。まず最初は安い作品からコレクションを始めて経験を積めばよい。そのきっかけになる作品が見つかる写真展だと思う。また、経験豊富なコレクターにも、真剣に探せば、名古屋で好まれる“お値打ち感”のある作品がかなり見つかるだろう。私は週末にはだいたい会場にいる予定だ。興味ある人はぜひ声をかけてほしい。ディープな情報を提供するつもりだ。

また、デヴィッド・ボウイの“Heros”のジャケット写真で知られる鋤田正義氏を招いてスペシャルトークを開催する。鋤田氏の名古屋でのトークは今回が初めてとのことだ。“BOWIE:FACES”展・展示作品を含む、鋤田正義氏の数々の作品画像やミニ・ドキュメンタリー動画をプロジェクターにて紹介。鋤田正義の写真家キャリアの変遷 と将来の計画、デヴィッド・ボウイ撮影にまつわるエピソード、撮影と作品制作の流儀、国内外での最近の活動などについて語ってもらう予定だ。ただし、サインは会場内で販売する限定カタログのみとなる。ご本人が高齢であることと、会場の混乱を避けるためなのでどうかご理解いただきたい。販売方法は、会期前に実行委員会から発表になると思う。

・鋤田正義スペシャルトーク概要
日 時:9月8日(土)14:00~15:30(開場13:30)
会 場:電気文化会館イベントホール
定 員:200名 ※予約制、全て自由席
参加費:2,500円

詳しくは以下をご覧ください

http://www.artphoto-site.com/inf_press_bowiefaces_nagoya_talk.pdf

・写真展について

開催時期: 2018年9月8日(土)-16日(日)
9:00-19:00(日曜/12:00-19:00)

開催場所: 納屋橋 髙山額縁店2F
〒450-0003 愛知県名古屋市中村区名駅南一丁目1-17

オフィシャルサイト
http://bowiefaces.com/

ケイト・マクドネルの風景写真
「はっ、ドキッ」とする瞬間の訪れ

ⓒ Kate MacDonnell “Caddis fly hatch by the Gallatin River, MT, 2014”

ケイト・マクドネルは、“Lifted and Struck”のアーティスト・ステーツメントで自作を以下のように語っている。

「見ることはなんと素晴らしいことでしょう!それでも、美の事例を捕まえるのは本質的に悲しい行為です。捉えたつかの間の閃光はすぐに消えていくからです。人生は時によって長くも短くも感じます。私は人生で努力して、これらの言い表せない瞬間の痕跡を集めるために働きます。時間をかけて、もっと近くで世の中の美しさやきらめきを見てほしい、そして不安で未知数だけど次のステップへと進んでほしい、私は皆さんにそう伝えたいのです」

マクドネルが、ネイチャー・ライティング系作家アニー・ディラードの“ティンカー・クリークのほとりで”(1974年刊)という著作に多大な影響を受けている事実は以前に紹介した。ディラードと同様に彼女は自然と対峙する。それを丹念に観察し自分との関係性を見出して、独自の宇宙や自然のヴィジョンを確立させている。それをヴィジュアルで作品として表現しているのだ。
このような説明だとアートに詳しくない人は意味が不明だと感じるだろう。それでは彼女の宇宙のヴィジョンとは何か?もう少し探求してみよう。やや難解なのだが、風景写真のアート性に興味ある人はどうか付き合ってほしい。
それはもちろん多くのアマチュア写真家のように、ただ感覚的に優雅で美しい瞬間や情景を探しているのではない。多くのアーティストは、自分の持つビジョンを自然や宇宙に探し求め、それが出現したシーンを作品化する。しかし、彼女は既存のどんなシーンにもとらわれない、というヴィジョンを持っている。まるで禅問答のようなのだが、そこには、いまの宇宙や自然界のどこかで発生しているが、誰も気付かない、見たことがようなシーンが存在するはずという認識がある。彼女の創作とはそのような現象を新たに発見して写真で表現することに他ならない。その作品制作のアプローチは、まるでビジネスでイノベーションを起こすための過程のように感じられる。
これは、上記のアニー・ディラードの語る以下の文章からの影響だと思われる。

「美しさと優雅さは私たちがそれらを感じるかどうかに関係なく出現している。 我々ができるせめてものことは、その場所に行こうとすることです」

作品制作時には、彼女は自分をニュートラルな心理状態にして、自然と対峙しながら「はっ、ドキッ」とする瞬間の訪れをひたすら待つのだ。一般的な美しい風景とは、見る側の解釈に他ならない。それは時にデザイン的要素が強い。彼女は目の前のシーンの観察に集中することで、その先入観から自由になろうとする。マクドネルは”心理学者と脳神経学者によると、混乱している状態は何か新しい知識を得ることと関連している”という引用を2017年のステーツメントで行っている。なにか自分に居心地がよくない状況こそが、宇宙での新たなシーンとの出会いにつながと認識しているのだ。普通の人は嫌な感じを避けようとする。しかし、彼女には自分の既存のフレームワークだけで世界を見ていても新たな発見がないという確信があり、あえて自分を追い込むのだ。たぶんその瞬間の訪れまでシャッターはむやみに切らないのではないか。
繰り返しになるが、それは美しいから、優雅に見えるからという認識ではなく、上記のように言葉で言い表せない「はっ、ドキッ」とする瞬間をとらえる行為だと思う。デジタルカメラ使用は、この作品コンセプトと見事に合致している。気候や光の状態や被写体の移動速度など、アナログでは再現できなかったシーンも作品として表現が可能になったのだ。

彼女は、自然風景だけでなく自分の身の回りにも同じ視線を向けている。これは自分の日常の中で作品制作を行うワイフェンバックの影響もあるだろう。被写体が異なるが、二人の対象を見つめる撮影アプローチは非常に類似している。それが今回の二人展につながるとともに、作品タイトル「Heliotropism」になったのだろう。二人の違いは、マクドネルが意識的に幅広く移動することを心がけている点だろう。それは自分を新鮮な状況に置くことが、新たな作品が生まれる可能性を高めるという考えによる。

今回の展示作の中に、2羽のフクロウと3匹の鹿の写真が含まれている。

ⓒ Kate MacDonnell “Broken winged owls, 2009”
ⓒ Kate MacDonnell “Deer corn, 2013”

これもアニー・ディラードの著作「イタチのように生きる」からの影響だろう。そこで彼女は、イタチは“必然”に生き、人は“選択”に生きる、と書いている。自らを客観視するきっかけとして、自我を持たず目的なく生きるイタチに思いをはせている。本作のマクドネルの動物たちも、人間が自然の一部である客観的な事実に気付くために意識的に収録されているのだ。写真のシークエンスのアクセントとして登場しているのではない。

マクドネルの“Lifted and Struck”は、フォトブックのフォーマットにより、より多くのヴィジュアルが紹介されることで、メッセージの強度が増すと思う。実際に来場者の多くがもっと多くの写真を見てみたいという意見を聞かせてくれる。ぜひ多くの出版関係者に見てもらい、フォトブックの可能性を検討してもらいたい。

また、本作は日本では珍しい、写真で自己表現する米国の若手アーティストの紹介となる。開催期間は8月まである。アート写真を学びたい人には絶好の教材となるだろう。ぜひ多くの人に見てもらいたい作品展示だ。

ケイト・マクドネル(Kate MacDonnell)
1975年米国メリーランド州、アッパー マールボロ出身。大学時代にワシントンD.C.移り住む。
子供のころから両親のサポートで写真を学ぶようになる。ハイスクール時代には、ヴィジュル・アートのカリキュラムの中で、絵画やドローイングと共にモノクロの暗室写真クラスを受講。1997年、コーコラン・アート・デザイン大学を卒業。自分が理想とするヴィジュアルつくりに写真が適していることに気づき、カラー写真による表現を開始する。
2000年代から、様々な研究奨励金を得て創作活動を行い、主にワシントンD.C.やニューヨークのギャラリーや美術館で作品を展示。2013年には、 ワシントンD.C.のシビリアン・アート・プロジェクツ(Civilian Art Projects)で個展「Hidden in the Sky」を開催。本展は初めて彼女の作品を日本で紹介する写真展となる。

「Heliotropism」
テリ・ワイフェンバック / ケイト・マクドネル
2018年 6月1日(金)~ 8月5日(日)
1:00PM~6:00PM
休廊 月・火曜日(本展では日曜も営業)
入場無料
ブリッツ・ギャラリー
http://www.blitz-gallery.com

 

「Heliotropism」
テリ・ワイフェンバック /
ケイト・マクドネル
@ブリッツ・ギャラリー

ブリッツ・ギャラリーの6月1日スタートの次回展は、米国人写真家テリ・ワイフェンバックとケイト・マクドネルの二人展「Heliotropism」となる。

二人はともにワシントンD.C.に在住する女性アーティスト。お互いに尊敬しあう友人同士だ。今回の写真展のアイデアは、主に地元で活動しているマクドネルが作品を世界に幅広く発信したいとワイフェンバックに相談したことから動き出した。二人はともに身の回りの出来事や風景をテーマに、自然世界を愛し崇拝する感覚を持って、カラーで作品制作を行っている。マクドネルが全米各地への旅で撮影している一方で、ワイフェンバックは一つの場所にこだわって撮影している。創作スタイルは違うものの、二人の作品には親和性がある。

ワイフェンバックは、自作が幅広く受け入れられている日本で、マクドネル作品の人気も出るのではないかと考えてブリッツに相談してきた。マクドネルは、作品集が出版されていないので、日本での知名度は全くない。個展を開催しても観客動員や作品販売は難しいと思われた。したがってワイフェンバックの知名度を生かして、二人展「Heliotropism」を開催する運びとなった。ワイフェンバックが展示作品のキュレーションを行っている。
ブリッツでは、ワイフェンバックとウィリアム・ワイリーとの二人展“As the Crow Flies”も2016年に開催している。日本で知名度のない外国人写真家の作品を紹介する手段として、有名写真家との二人展は効果的だと考えている。

さて作品タイトルの「Heliotropism」は、花・植物や動物が太陽に向かう性質、向日性を意味する。二人のヴィジュアルはかなり違うが、ともに宇宙や自然に畏敬の念をもって創作に取り組んでいる。その内面にある作品モチーフへの同じ方向性に注目して、二人で写真展タイトルを「Heliotropism」と決めたのだ。今回は英文タイトルをそのまま使用している。

マクドネルの“Lifted and Struck”は、ネイチャーライティング系で、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの「ウォールデン森の生活」(1854年)の流れを踏襲しているというアニー・ディラード著の「ティンカー・クリークのほとりで」に多大な影響を受けて制作。タイトルも同書の文章から取られている。上記の「ウォールデン森の生活」は、写真家のエリオット・ポーターが写真集”In Wildness Is the Preservation of the World”(1967年)でその世界観をカラー写真で表現している。マクドネルは”Lifted and Struck”で、ディラードによる「ティンカー・クリークのほとりで」の世界観をヴィジュアルで表現しようとしたのだろう。
“私の写真は日常生活の中にある、宇宙の神秘を探し求めています。宇宙に思いをはせると、私たちは無知で欠点だらけな小さい存在であることを実感します”と語っている。これは写真作品を通して世界の仕組みを理解したいという意味で、まさに本展の趣旨そのものといえるだろう。

本展では、ワィフェンバックは伊豆で撮影され、昨年IZU PHOTO MUSEUMでも展示された“The May Sun”からカラー作品17点、鳥のシルエットを捉えた新作“Centers of Gravity”からモノクロ作品9点、マクダネルは“Lifted and Struck”からカラー作品17点を展示する。
“The May Sun”が、デジタル・C・プリント、その他はデジタル・アーカイヴァル・プリントとなる。

本展では限定300部の展覧会カタログを制作した。写真集はワィフェンバックの“Centers of Gravity”(サイン入り)、“The Politics of Flower”(サイン入り)を限定数だけ店頭販売。またブリッツが過去に刊行した残り少ない関連展覧会カタログも販売する。

初夏らしい、とても爽やかなカラーによる風景写真の展示となる。アート写真ファンはもちろん、風景写真で自己表現に挑戦している人にとっても必見の写真展だろう。

「Heliotropism」
テリ・ワイフェンバック / ケイト・マクドネル
2018年 6月1日(金)~ 8月5日(日)
1:00PM~6:00PM  休廊 月・火曜日(本展は日曜も営業)
入場無料

ブリッツ・ギャラリー
〒153-0064
東京都目黒区下目黒6-20-29

JR目黒駅からバス、目黒消防署下車徒歩3分 / 東急東横線学芸大学下車徒歩15分

ROCK ICONS展が3月29日からスタート
鋤田正義/グイード・ハラリ 珠玉のポートレート

ブリッツ・ギャラリーは、鋤田正義とイタリア人写真家グイード・ハラリによる20世紀ロックの伝説的ミュージシャンたちのポートレート写真展を3月29日(木)から開催する。

鋤田は日本、英国、米国、ハラリは欧州と活躍の地域は違うものの、70年代から90年代までの20世紀ロック黄金期のロック・アインコンを撮影してきた。撮影スタイルは違うものの、お互いの仕事をリスペクトする友人同士でもある。
二人は、ハラリが運営するイタリアのギャラリーでの写真展の際に知り合った。お互いにミュージシャンのポートレートを撮影してきたことからすぐに親しい関係となった。ハラリは熱心な音楽ファンの多い日本での作品展示を熱望して、今回の二人展開催となった。
本人は来日予定だったが、体調悪化でドクターストップがかかり急遽中止になってしまった。

鋤田正義といえば、デヴィッド・ボウイのポートレートを約40年にもわたり撮影し続けてきた写真家として知られている。本展でも、彼の膨大なアーカイヴスの中から、未発表を含む多数のボウイ作品が展示される。彼が時に語るボウイとのエピソードは二人の関係性が読み取れて興味深い。鋤田が撮影したボウイのポートレートが別格である理由がよくわかる。若かりし鋤田は、広告の仕事で資金稼ぎを行って、その時にしか撮れない被写体を求めて世界中を旅したいと考えていた。しかしボウイは、広告の仕事をあまりやるなと、よく鋤田にアドバイスしていたという。そういうボウイ自身は広告に出たりしていたので、鋤田はやや違和感を感じていたという。ボウイの80年の日本での広告の仕事では、最も信頼する写真家のはずの鋤田をあえて指名しなかったという。それは。ボウイが鋤田はアーティストであり、広告写真家ではないという、高いリスペクトを持っていたからだと思われる。

この辺りの価値基準は非常に分かりにくいので説明しておこう。欧米ではファインアート系と広告系の写真家は全く違うキャリアを歩み、仕事が重なり合うことはない。日本ではお金を稼ぐ広告写真家の社会的地位が高い。一方で欧米ではファインアート系の人は、お金よりも自由な表現を追求し、世の中に新しい視点を提供する存在として、社会的に尊敬されている。当然、鋤田は日本をベースに仕事をしており、当初は広告優先の価値観を持っていた。ボウイの広告撮影に指名されなかったときは残念に感じたそうだ。鋤田はボウイの趣旨を後になってから理解したという。彼はボウイとの付き合いの中で、アーティストとして社会で生きていく姿勢を学び実践していったのだ。
その結果、いまや彼のポートレート写真家としてのポジションは日本人としては別格と言えるだろう。海外の一流写真家は、どんな有名人を撮影してもそれは本人の作品として扱われる。それは両者は平等にアーティストだと考えられるからだ。作品は自由に発表できるし、ギャラリーではアート作品として取り扱われる。日本人写真家の場合は、ミュージシャンの方が地位が高く、写真家はただ指示通りに撮影するだけの場合が多い。テレビ局のカメラマンと同じような感じだ。もちろん写真を自由に使用することはできない。鋤田はただ単にボウイのヒーローズのLPジャケットを撮っただけの写真家ではないのだ。日本人で数少ない業界でアーティストとして広く認識されている写真家なのだ。

鋤田はただミュージシャンの写真撮影だけを行っているのではない。たぶんこの点もボウイからアーティストとして認められた理由なのだろう。俳優、文化人から一般人まで幅広い人を被写体にするほか、長年にわたりランドスケープやシティー・スケープの写真にも取り組んでいる。優れたアーティストは、マンネリに陥ることを恐れて、常に新しいテーマを追い求める。彼らは写真での表現者であり、お金稼ぎは重要と考えるが最優先順位ではないのだ。現在は、ボウイが亡くなったことから、ミュージック系のポートレート写真を撮影してきた写真家だと思われがちだ。しかし、彼には過去に撮影した膨大な作品アーカイヴスがある。いまその整理整頓に真剣に取り組んでいる。
過去に撮影した作品の現在の視点での再解釈も行っている。それには彼の代名詞のボウイのポートレートも含まれる。最近フィーチャーされる機会が多い、”Heroes”と同じく1977年に撮影された”Just for one day”。(本展でも展示中) 同作は長らく未発表だった。それは、ロックミュージシャンである強いイメージのボウイの表の顔の緊張が途切れて、リラックスして優しい表情を見せた瞬間をとらえた写真。ロックのカリスマの顔をしている”Heroes”のLPジャケット写真とまさに表と裏の作品だ。鋤田はずっとそれはボウイのイメージに似つかわしくないと考えて発表してこなかった。しかし、長い時間が経過し考え方が変化したという。いまではボウイの好きな写真の1枚だと本人が語るようになっている。

今後は、ミュージック系だけにとどまらないポートレート、そしてランドスケープやシティー・スケープの見直しや編集作業と共に、精力的に新作にも取り組んでいる。4月3日から5月20日、地元福岡県の直方谷尾美術館で鋤田正義 写真展「ただいま。」が開催される。同展では、彼のキャリアを網羅する展示が試みられる。どのような視点で彼のキャリア全体を一貫性を持って提示するか。今後は国内外の様々なプロジェクトで試行錯誤が行われるだろう。

本展は、日本におけるグイード・ハラリ作品のギャラリー初展示となる。彼は自らのギャラリーを設立して写真を販売するとともに、デザインにも関わって写真集やカタログまでを製作してしまう。実は本展のカタログ、ポスター、案内状のデザインも彼のスタジオが手掛けている。
彼のロック・ミュージシャンのポートレートは、いくつかのおおきなカテゴリーに分類できる。ボブ・ディラン、ボブ・マーレィ、エリック・クラプトンなどのカリスマ性を持つ強い被写体の時はモノクロのストレート写真で表現している。それ以外では、ミュージシャンに様々なポーズや動きを提案したり、様々な場所に連れ出したりして撮影。さらに写真をべースにして画像・色彩を重ねたりして全く新しい作品を作り上げている。それらは被写体との信頼関係がないと制作できない一種のコラボレーション作品とも解釈できる。撮影後に作品に手を加える作業や、被写体に過度の指示を与える撮影に対しては、様々な意見があるだろう。ミュージシャンのポートレートは、音楽が存在していた時代性がイメージに反映されると、見る側にはより魅力的な作品となる。優れた写真家は、被写体をストリートに連れ出したり、一緒に長期間行動することで、そのような作品を制作している。しかし、相手に信頼されないと、なかなか時代性が反映された写真は撮影できない。ミュージシャンの写真がアート作品になるか、単なるポートレートで終わるかは両者の関係性に強く影響される。ロックがビッグ・ビジネスなりに従い、かつてのように写真家に多くの自由裁量が与えられるケースは少なくなっている。ハラリ作品は、このような創作に厳しい状況であっても、写真家に作家性を発揮する可能性があることを示している。被写体の動きや、撮影のバックグラウンド、そしてポスト・プロダクションを駆使することで、音楽が奏でられていた時代の気分や雰囲気が表現可能なのだ。彼のミュージシャンへのリスペクトと、音楽への高い理解力がこれらの作品を製作可能にしているのだろう。単にデザイン性、奇抜さ、目新しさを追求したのではないと感じる。彼の様々な作品から音楽の背景にあった時代を感じられるか、ぜひ来場者自身の目で判断してほしい。

本展で紹介されるミュージシャンは、鋤田が、デヴィッド・ボウイ、マーク・ボラン、デヴィッド・シルヴィアン、イギー・ポップ、YMO (イエロー・マジック・オーケストラ)、忌野清志郎、シーナ & ロケッツ、SUGIZO(スギゾー)など、ハラリが、ピーター・ガブリエル、ボブ・ディラン、トム・ウェイツ、ルー・リード、ローリー・アンダーソン、ボブ・マーレィ、エリック・クラプトン、パティー・スミス、ケイト・ブッシュ、イギー・ポップ、坂本龍一、ジョニー・ミッチェルなど。モノクロ・カラーのよる様々なサイズの約45点を展示する。

展示予定作の一部は以下からご覧いただけます。
・鋤田正義 作品
http://blitz-gallery.com/sukita.html
・グイード・ハラリ 作品
http://blitz-gallery.com/Harari.html

なお本展ではブリッツは19時まで営業、日曜日もオープンする。ただし、月曜に加え火曜水曜も休廊なのでご注意ください。(ゴールデン・ウィーク中も同様)

(開催概要)
ROCK ICONS SUKITA X HARARI 鋤田 正義 / グイード・ハラリ
2018年3月29日(木)~ 5月20日(日) 1:00PM~7:00PM
休廊 月・火・水曜日
入場無料

ブリッツ・ギャラリー
〒153-0064  東京都目黒区下目黒6-20-29  TEL 03-3714-0552

2018年ブリッツの写真展開催予定
高橋和海「Eternal Flux」展

2018年は、高橋和海の「Eternal Flux」(- 行く水の流れ -)からスタートする。会期は、1月9日(火)から3月10日(土)まで。

Ⓒ Kazuumi Takahashi

高橋の展示は、2009年開催の 「Moonscape – High Tide Wane Moon-」以来となる。彼は、前作で月と海の組写真を通して、月の引力と地球の海との関係性や、その潮の満ち引きの私たちの行動への影響を提示。作品は、大型カメラ(4×5版)を使用し、自然との長時間の対峙の中から生みだされた。静謐かつ瞑想感が漂う風景シーンは、人間が自然の大きな営みのなかで生かされている事実に直感的に気付かせてくれる。無限な宇宙の中では、一人の人間の人生の悩みなど取るに足らない、などとよく人生論の本などに書いてある。しかし、日々忙しい生活を続けていると、様々な悩みごとやトラブルが世の中のすべてのように感じてしまう。言葉を変えると、自分の持つ狭いフレームを通して世界を把握しているともいえる。瞑想や座禅を通して、自らを客観視する方法もある。しかし、私たちは優れたアート作品と対峙することで直感的に自らの思い込みに気付くのだ。宇宙飛行士は、宇宙空間に身を置くことで直感的に何か神々しいものの存在を感じたという。それに近い体験だと思う。私たちは気軽に宇宙に行くことはできないが、優れたアートを体験できるのだ。高橋の作品は、見る側が自らを客観視するきっかけを提供してくれる。私たちはそれらによって、癒されるとともに、枯渇していたエネルギーが再注入される。ただしアートの効用をうまく生活に取り込むには、本人がどれだけ人間の認知能力の特性を学び理解しているかが問われる。

「Eternal Flux」は、永遠に続く絶え間ない変化、という意味。サブタイトルの「行く水の流れ」は、方丈記を意識して付けられている。本作で、高橋はライワークとしている宇宙の営みの視覚化をさらに展開させている。今回は、海の水は太陽によって蒸発し、再び水に還り、雨として陸地に降り、そして再び海へと還るという、完全なる水の循環サイクルを意識して作品を制作。その自然サイクルから現代社会の諸問題の解決ヒントを導き出そうとしている。人間が自然を支配するという西洋的な思想が、地球の資源を消費し自然破壊を引き起こしてきた。それに対して、仏教の輪廻に通じる自然サイクルを重視する考えが、この問題への対処方法になるのではないかと示唆しているのだ。

いまや日本の伝統的美意識の「優美」をテーマにするのは風景を撮影する写真家の定番といえるだろう。私は写真家の知識、経験の違いにより、見る側が受けるコンセプトの深みがかなり違うと考えている。例えば、ネット上の解説を引用しているだけのものと、長い人生経験を通して自らが紡ぎだしてきた感覚がテーマに昇華した作品は全くの別物だろう。高橋の場合、作品のテーマ性が人生と深いかかわりを持つ。彼は潮の満ち引きが生活に根付く漁師の家に生まれ、常に自然のリズムを意識しながら生きてきた。その延長線上に、宇宙の営みの仕組みを解明して視覚化するというテーマを膨らましてきたのだ。

本展では、デジタル化進行で制作が困難になった貴重な銀塩のタイプC・カラープリントによる作品16点が展示される。ぜひアナログ・カラープリントの持つ、ぬめっとした芳醇な質感を実感してほしい。会場では、フォトブック「Eternal Flux」(SARL IKI 2016年刊)も限定数販売される。プリント付き限定カタログも現在進行形で制作が行われている。2018年正月は、新年にふさわしい清々しい風景写真をぜひご高覧ください。

http://blitz-gallery.com/

トミオ・セイケ写真展いよいよ最終週!個別作品の見どころを解説

トミオ・セイケの「Julie – Street Performer」展は、いよいよ今週末の12月2日まで。どうぞお見逃しがないように!今回は、写真展をより楽しめるように個別作品の見どころを紹介しておこう。
Ⓒ Tomio Seike 禁無断転載
 地下鉄の入口付近に座ってジュリーが大判の新聞を見ている作品がある。紙面サイズからして、大衆が読むタブロイド判の夕刊紙ではなく一般紙だと思われる。
紙面から、「Dancer」、「Perfection」などの文字が読み取れ、縦位置のダンサーの写真が確認できる。ジュリーが読んでいるのはアート・文化欄だと思う。ストリート・パフォーマーが一般紙を読むのはやや意外な感じがするが、インテリ層が読む英国の一般紙は、バレー、演奏会、舞台などの公演の論評に大きく紙面スペースをさいている。
私がロンドンに住んでいた時に驚いたのは、公演記事の迅速性だった。前の晩に見た公演の評論と評価が、早ければ翌日の朝刊、もしくは数日のうちに紙面に掲載されていた。それを見て、自分が実際に鑑賞した演奏などの印象と専門家の評価との違いを確認し勉強していた。ジュリーは、当時はストリート・パフォーマーだったが、バレーを幼少時から学んでいて、将来は舞台などでの表現者になるのを夢見ていたという。それゆえ、毎夜ロンドンで開催される各種の公演(たぶんダンスやバレー系)の専門家の意見に関心が高かったのではないか。
偶然、ギャラリーでこの作品を見ていた人が新聞社に勤めていて、日本と西洋との一般紙のアート欄の違いへと話題が展開した。一般的に、海外の記事は過去のその分野の実績の積み重ねとの比較で優劣の判断を下す傾向がある。日本のアート記事は、プレスリリースの内容そのままの紹介である場合が多い。今年話題になったキュレーションサイトのアート版に近いともいえるだろう。小説家や評論家が文章を寄せる場合もあるが、それらは本人が好き嫌いの理由を探して書いている場合が多い。好き嫌いは本来言葉で簡単に表せない。それを無理に語ろうとすると感想文的になってしまう。どうしてこのような違いが出てくるかというと、西洋では長年にわたり業界の動きをフォローする専任の記者が存在するものの、日本では文化欄の担当者が頻繁に内部移動するからだと思われる。またアートについてコメントする作家は文章執筆には慣れているが、決して一分野の専門家ではない。アートや文化分野はあまり専門知識や経験の蓄積が重要視されないのも背景にあるだろう。海外の読者は、公演などを判断する上での専門的な視点の提供を求めるが、日本の読者は小難しい文章よりも、よい情報を選んで整理整頓して伝えてほしいという要望が強いのだと思う。結局、新聞自体ではなく一般大衆の求める情報の違いが日本と西洋の文化関連の記事に反映されているのではないだろうか。新聞社の人との止めどない会話はこのような結論となった。
Ⓒ Tomio Seike 禁無断転載
進行方向が違う2台の車が画面上ですれ違い、車道の向こう側の左側にジュリーと友人の姿が小さく写っている作品がある。彼らの後ろの壁面には「Second Hand Bookshop」という古書店の看板が見られる。画面右側後方にはロンドン・バスの停留所があり、ロンドンで撮影された作品であることがわかる。本作は3種類あるミニ・プリントにセイケがセレクションした本人お気に入りの1枚だ。写真の中の車は、欧州フォード社製のカプリ・クーペと、GM資本のボクスホール社製のカヴァリエⅡハッチバックだ。ダンサーのジュリーが北米のカナダ人であることは前にも触れたが、本作で撮影された2台もアメリカ資本による欧州製の乗用車なのだ。
今回の展示作品は、昨年リヴァプールの若者グループを撮影した「Liverpool 1981(リヴァプール 1981)と対になっている。英国では、伝統的にその人が育ってきた家系や地域が重要視されてきた。「自分の未来を簡単には変えられない」という認識がある。リヴァプールの若者グループの明るさや笑顔は、現状は変わらないのだから、今を楽しく生きようという諦観が根底にあるのだ。それに対して、アメリカンドリームを信じる北米の人は「未来は変えることができる」と考える。英国のロンドンで、米国資本の会社の自動車と明るい未来を信じるカナダ人のストリート・パフォーマーを撮影した本作は、セイケの本展の作品テーマを象徴的に表しているのだ。たぶん、当時のセイケは、階層社会が残っていて閉塞感が漂う英国よりも、北米のポジティブな考えに魅力を感じていたのだと思う。
次回作の「Portraits of Zoe」のモデルになったのはゾイという米国人女性だ。作家活動には高いテンションの維持が必要だ。ポジティブな姿勢を持つ人と組むほうが、相乗効果で新たな創作が生まれやすい。英国に在住しているセイケが米国人を被写体に選んだのは、この辺の心理が影響しているのではないか。
本作は、写真撮影と発表時期の関係性が作品テーマに大きく関わる事実を示してくれる。ちょうど撮影された80年代の前半はポスト工業社会、いわゆるニューエコノミーが北米と英国で始まった時期にあたる。リヴァプールの若者グループに象徴される英国の労働者階級は、その後にニューエコノミーの結果による経済グローバル化の影響を受けることになる。工場移転、移民増加、緊縮財政などに直面して、厳しい生活環境を強いられるのだ。作品中の看板があった古書店も、ニューエコノミーと同時進行したIT社会化によるオンライン・ブック・ショップの乱立に直面する。資本の原理が働き、結果的にコストのかかる多くの業種が廃業に追いやられるのだ。
それが2016年になり、ついにグローバル化の欧州版であるEUからの英国離脱決定(ブレグジット)へとつながっていく。グローバル化によって置き去りにされた、リヴァプールの若者たちに重なる先進国の労働者階級が、ついにエリート層に対して反旗を翻したのだ。
本作が2017年に公開されたのは非常に重要な意味がある。セイケの1982年撮影の写真作品には、世界でその後に起きた35年のストーリーの原点がある。35年前の作品には、21世紀社会の時代性が反映されているのだ。また日本で公開されたことで、日本人(特に若い層への)、今後の生き方を考えるきっかけにしてほしい、という問いかけも含まれている。
優れた写真作品に能動的に接すると、このように様々なストーリーが読み取れる。つまり、作品のテーマ性の見立てが可能なのだ。
トミオ・セイケの「Julie – Street Performer(ジュリー –
ストリート・パフォーマー)」展は、12月2日(土)まで開催。うまい写真を撮りたい人はもちろん、写真で自己表現したい人にとっても必見の写真展といえるだろう。

(作家来廊予定)
セイケ氏は最終日の午後1時30分くらいに来廊予定。

トミオ・セイケの初期作品発見!
カメラ毎日76年3月号・山岸章二との出会い

トミオ・セイケ写真展に和歌山から来廊されたT氏が、カメラ毎日1976年3月号を持参してくれた。そこには当時新人だったセイケによる初期のカラーとモノクロの風景作品が“Landscape”というタイトルで10ページに渡り紹介されていた。これらは、1974年9月から1975年5月までの在英中に撮影された作品で、写真家自らがカメラ毎日の山岸章二(1930-1979)に売り込みに行って、採用されたとのことだ。

カメラ毎日76年3月号 98ページ Ⓒ Tomio Seike

最初の5ページはセイケでは珍しいカラー作品が紹介されている。

カメラ毎日76年3月号101ページ Ⓒ Tomio Seike

それらはリバーサル(ボジ)フィルム「コダクローム」と望遠レンズを使用して、手持ちの多重露光で撮影された、センチメンタルで絵画的な作品だ。50年代前半のアーヴィング・ペンの風景から人物が消えたような雰囲気に感じられる。

 後半5ページは「イルフォードHP4」で撮影されたモノクロ風景。近景を撮影した作品は、フランス人写真家エドワール・ブーバ(1923-1999)を思い起こさせてくれる。この当時のセイケは、まだ30歳代前半。カラー、モノクロ、そして広角、標準、望遠と様々なレンズを使って、自らのオリジナリティーを探そうとしていた様子が垣間見れる。ちなみに使用していたカメラはニコンF2だ。セイケは、“ファッショナブルではなく、美しさと洗練さを兼ね備えた写真”を目指して取り組んだと同誌に記している。
カメラ毎日76年3月号105ページ Ⓒ Tomio Seike
山岸は1960~1970年代に活躍した伝説的な写真編集者。当時は、欧米で「ライフ」などのグラフ雑誌が衰退し、自己表現としての写真が注目されてきた時代だった。山岸は欧米の最前線の現代写真を雑誌で次々と日本に紹介していった。若い才能ある写真家の発掘にも力を発揮して、20歳代の森山大道、篠山紀信、立木義浩を雑誌でいち早く取り上げている。
また写真展の企画も手掛けており、ダイアン・アーバス、リチャード・アヴェドン、J-H・ラルティーグ、ピーター・ベアードなどを日本に紹介。海外への日本写真紹介も行っており、1974年には、ニューヨーク近代美術館で“New Japanese Photography”展、1979年にニューヨーク国際写真センタ―(ICP)で”日本の自写像”展をキュレーターとして開催しているのだ。ネット上では、写真評論家の飯沢耕太郎氏が“Photologue – 飯沢耕太郎の写真談話”で詳しく語っているので参考にしてほしい。
私は窓社の西山俊二社長が手掛けた“写真編集者 山岸章二へのオマ―ジュ”(西井一夫 著、窓社 2002年刊)を読んで、山岸の極めて個性的な人物像を知ることができた。著者の西井一夫(1946-2001)は、山岸の部下として一緒に仕事をした人物で、85年4月号で休刊になったカメラ毎日の最後の編集長。同書には、山岸の写真界での功績や、彼と森山大道、東松照明らとの興味深いインタビューも収録されている。興味ある人は一読を進めたい。
若かりしセイケが、カメラ毎日の山岸によりデビューの機会を得たのは新たな発見だった。山岸は1976年から編集長になるが、3月号の編集長は北島昇となっていた。セイケが会った時はまだ副編集長だったと思われる。セイケによると、売り込みに行ったら、山岸はいきなり10ページを与えてたという。山岸が初対面だった森山大道の持ち込み写真の雑誌掲載を即断したエピソードは伝説になっているが、同じようなことがセイケにも起きていたのだ。
この号の多くの掲載写真の中で、セイケの実験的要素があるが洗練された作品は全く異質に感じられる。たぶん山岸には、外国人写真家を紹介するようなニュアンスがあったと思われる。またセイケの欧米写真家的な写真への取り組み姿勢を評価して発表の場を与えたのだろう。山岸は、約40年以上前にセイケの現在の写真家としての成功を見事に見抜いていたのだ。
同誌は、セイケにとって初めての雑誌掲載だった。雑誌の刊行を待ちわびていたセイケは山岸に連絡をとったという。直ぐに編集部に来いといわれて訪問すると、編集部用の早刷り雑誌をセイケに渡してくれたとのことだ。セイケがこのようなエピソードを話すのは珍しい。山岸の何気ない厚意にとても感動し、その人間性に魅了されたのだと思う。
参考のために同誌「今月登場」のセイケのコメントの最終部分を転載しておく。
「渡英中、日本の写真雑誌を見ては、流行ではない、洗練されたきれいな写真を撮りたいと思っていたという。コンポラでもない大型カメラでもないもの、そういう写真を掲載してくれる雑誌は、もう日本にはないのか、と思っていたが・・・・・・・。」
山岸は1979年に初老性鬱病を患い自死している。その後、日本はバブル経済へと進んでいく。ここから日本の写真は欧米と全く違う方向に進むのだ。写真でのパーソナルな表現よりも、好景気でお金が流れてくる商業写真が中心となる。多くの写真家がその延長線上に自由な自己表現の可能性があると信じた。しかしバブル崩壊によりあっけなくそれが幻想だと気付かされるのだ。2000年、上記の編集者の西井は山岸を約20年ぶりに振り返り、“遂に、日本には、写真雑誌は根付かず、写真エディターも育たず、写真批評の地平線も生まれなかった。山岸章二はいまだ必要なのか?”と記している。
欧米の写真状況を熟知しているセイケも、山岸の死後、日本の写真状況は悪化していると語っている。
この国では、いまだに欧米のような「写真」での表現は生まれず、「写真」はその領域の中で様々な価値基準とともに存在している、という意味だと理解している。日本で写真作品が売れない理由もここから来ているのだ。

トミオ・セイケ写真展 見どころを解説!「Julie – Street Performer」
10月3日スタート!

ブリッツ・ギャラリーでは、海外を中心に活動する写真家トミオ・セイケの「Julie – Street Performer (ジュリー – ストリート・パフォーマー)」展を10月3日から開始する。本展では、若きストリート・パフォーマーであるジュリーを中心に撮影された1982年の作品が世界初公開される。昨年に当ギャラリーで開催して好評だったリヴァプールの若者グループを撮影した「Liverpool 1981(リヴァプール 1981)」と、本作はセイケが80年前半に英国で出合った若者たちをドキュメントしたシリーズの2部作となる。
ⒸTomio Seike 禁無断転載
ストリート・パフォーマーは大道芸人と日本語に訳される。外国ではライブ演奏も含まれる。ロンドンでは、行政からライセンスを得たパフォーマーが指定された路上で、歌、踊り、演技、演奏、アートなどのパフォーマンスを行い、観光客を楽しませてくれる。
1982年10月、セイケはロンドンで、カナダから来た若き4名のストリート・パフォーマーに出合う。彼らは男女二人ずつのグループで、ギターなどでの演奏をバックに男女のペアがダンス・パフォーマンスを行っていた。セイケは、彼らに興味を持ち、約1週間にわたりグループと行動を共にする。コヴェント・ガーデン、カムデン・マーケット、ポート・ベロー・マーケットで、主に女性ダンサー・ジュリーのパフォーマンスや私生活を集中的にドキュメントした。セイケのカメラがとらえたのは将来の大きな希望と現実の不安の中で揺れ動く若者たちの表情や態度。前作のリヴァプールの若者たちと同様に、青春の光と影が表現されている。
この80年代初頭の2作では、ともに厳しい環境下で暮らす若者たちが撮影されている。リヴァプールの若者は、常にジョークを言い合い、表情は明るかったという。少なくとも彼らには、十分ではないにしても行政の支援があり、親元にいたので住む家はあったのだ。英国経済は79年~81年にかけて高インフレの進行と景気の後退に直面していた。当時の若者たちは、自分たちの現状は変わらないという一種の諦観があり、そんな自分たちを俯瞰して笑い飛ばすようなシニカルな緩い表情が見受けられる。
一方で、カナダ出身で、旅の中で暮らすストリート・パフォーマーたちの生活環境は、リヴァプールの若者よりも厳しいと思われる。しかし、彼らの表情からは凛としたような強い意志が感じられる。たぶん自己表現の道を歩むという、将来の目標を自らで考えて、決断を下したことによる覚悟がその背景にあるのではないか。
このあたりは、社会階層の変動が乏しい英国と、努力すれば自分の可能性は開ける、と考える新大陸の北米との考え方の違いなのだろう。80年代前半の北米では、まだアメリカンドリーム的な考えを持つ若者が多かったのだろう。セイケは長年英国に暮らし、同国文化をよく理解している。彼が感じた、ストリート・パフォーマーとリヴァプールの若者との生きる姿勢の違いが本作制作の動機の一つだと思われる。
いまや北米社会は超格差社会になってしまった。21世紀のいまあえて本作をセイケが発表するのは、努力すれば自分は変わることができる、という楽観的なアメリカンドリームの勘違いの行く末を提示したかったのではないか。そして、北米と英国の二つの全く違う生き方の姿勢を示し、幸せな人生とは何かをいまの日本人、特に若者に考えて欲しいのだろう。
判断は写真を見るそれぞれの人に任せるとして、私の個人的な意見を述べておこう。たぶん、この二つの考え方の中間がバランス的にが良いのではないか。重要なのは、現実検討能力だろう。米国文化に影響された日本人にも、積極的な思考を追求する人が多くいる。日本人は欧州・英国よりもアメリカ的な考えを持つ人が多いと思う。しかし、彼らはうまくいったらその原因を自分に求め、失敗したときの原因を外部に求める傾向がある。ポジティブな姿勢は良いのだが、同時に客観的に自分の能力を見極めて、自らの判断に全責任を負う覚悟を持つことが重要なのではないだろうか。頑張る一方で諦める、そのバランス感覚だと考える。

セイケの代表作はアメリカ人女性のゾイを20歳から約5年間にロンドン、パリ、ニューヨーク、東京で撮影した「ポートレート・オブ・ゾイ」シリーズだ。「Julie – Street Performer」は、ちょうどそれを開始する1年前の1982年に取り組んだ作品となる。カメラはライカM4とライツ-ミノルタCL、レンズはズミルクスの35mmと50MM、ズミクロン90mm。そしてあのノクチルクス50mmf1.0が使われている。特に本作はセイケがノクチルクスを使用して撮影を行った初めての作品となる。レストランパブ、地下鉄などの光が弱い環境のポートレート撮影ではレンズの能力が見事に発揮されている。それらはセイケ写真の特徴であるモノクロームの抽象美を追求する作品スタイルへの展開を予感させる。

また次作の「ポートレート・オブ・ゾイ」撮影の発想の原点だと思われる作品も発見できる。鏡を見ているピエロの化粧を落としたジュリーの素顔の表情は、ゾイ・シリーズの未発表作と勘違いしてしまう印象だ。一部には、ドキュメント的、また中望遠で撮られた作品が見られる。またセイケ作品は、洗練された、静的な雰囲気のものが多いのだが、本作中にはカジュアルで動きのある写真も発見できる。写真家がどのようにオリジナリティーや撮影スタイル確立に試行錯誤したかの痕跡だといえるだろう。

このように、同作には見どころが満載だ。セイケ写真の原点ともいえる、ファンには非常に興味深い展示だといえるだろう。本展では、デジタル・アーカイヴァル・プリントによる作品21点が展示される。昨年限定発売して好評だったフレーム入りミニプリント。今年も販売する予定だ。こちらは店頭のみの販売となる。トミオ・セイケは土曜の午後に来廊する予定。来廊予定は、ギャラリー・ホーム・ぺージやツイッターを参考にしてほしい。

 トミオ・セイケ 写真展
「Julie – Street Performer」