2019年春NYアート写真オークションレビュー(1)
情熱によるコレクション構築の終焉

米国経済は比較的堅調だが、中国や欧州では弱い経済指標が発表されはじめており、景気の先行きには決して楽観できない状況だ。
アート相場に影響を与える世界の株価は、米国などの主要国が利上げを見送る方針を示したことから、昨年末の下落からは回復基調を続けている。しかし景気の先行き不安を受け、頭打ち感が強くなっている。オークション開催時の4月上旬のNYダウは昨年春の24,000ドル台より高い26,000ドル台で推移。アート相場への株価の影響はほぼニュートラルといえるだろう。

4月2日から5日にかけて、ニューヨークで大手3社が単独コレクションと複数委託者による合計6つのオークションが開催された。
クリスティーズでは、4月2日に複数委託者の“Photographs”、単独コレクション・セール“Daydreaming: Photographs from the Goldstein Collection”、“The Face of the Century: Photographs from a Private Collection”、フィリップスでは、4月4日に複数委託者の“Photographs”、単独コレクション“Passion & Humanity: The Susie Tompkins Buell Collection”、ササビーズでは、4月5日に複数委託者の“Photographs”が行われた。

今春のオークションでは、トータル739点の作品が出品。ちなみに昨年秋は866点、昨年春771点だった。平均落札率は75.24%、昨秋の62.36%より改善。ちなみに昨年春は72.5%だった。
今春は総売り上げが約2146万ドル(約23.6億円)。昨秋は約1648万ドル、昨春は約1535万ドルを大きく上回る結果だった。2000万ドル越えは、2014年春シーズン以来となる。1点の平均落札単価は約3.8万ドル(約418万円)、昨秋の約3.05万ドル、昨春の2.74万ドルよりも大きく上昇。つまり、極めて貴重な作品を抱える個別コレクションの3つのセールが総売り上げアップに貢献したと思われる。
オークション・レビュー(1)では、単独コレクション・セールに注目してみよう。

フィリップスは、56点からなる“Passion & Humanity: The Susie Tompkins Buell Collection”セールを開催。スージー・トンプキンス・ブエル(Susie Tompkins Buell)は、米国の企業家、女性実業家。有名洋服ブランドの“Esprit”や“The North Face”の共同創設者、民主党系の政治活動家、慈善家として知られている。友人でキュレーターのメリリー・ペイジ(Merrily Page)の助言をもとに、まだアート写真市場が黎明期だった80年~90年代にかけて写真コレクションを構築。最初は、新居のアパート壁面に飾るためにコレクションとして開始したとのことだ。1991年には、ウェストンやモドッティのヴィンテージ作品をオークション最高額で落札してマスコミでも話題になっている。エドワード・ウェストン、エドワード・スタイケン、マーガレット・バーク=ホワイト、ティナ・モドッティ、ドロシア・ラングなどのヴィンテージの傑作を含む、写真史におけるテーマ的な統合性、個別作品の美的な高さなど、極めて優れたコレクションと評価されている。本コレクションは単なる億万長者の道楽の域を超え、多くのアート写真ファンの心を揺さぶる“20世紀写真コレクションの夢”のような内容。今オークション・シーズンでの最注目セールだった。
結果は56点中54点が落札。落札率は驚異の96%。総売り上げは約545万ドル(約5.99億円)だった。最高額は、エドワード・ウェストンの“Circus Tent, 1924”で78.8万ドル(約8668万円)、

Edward Weston, Circus Tent, 1924 / Phillips Ny

ティナ・モドッティの“Telephone Wires, Mexico,1925”が69.2万ドル(約7612万円/オークション作家最高額記録)、エドワード・スタイケンの“Heavy Roses, Voulangis, France, 1914”が52.4万ドル(約5764万円)、

Edward Steichen, Heavy Roses, Voulangins, France, 1914 / Phillips NY

マーガレット・バーク=ホワイトの“Flood Refuees, Louisville, Kentucky,1937”が40万ドル(約4400万円/オークション作家最高額記録)、10万ドル以上の落札が15作品もあった。

フリップスは同セールに非常に力を入れ、全米各地で展示会を開催。またスージー・トンプキンス・ブエルのインタビューをウェブサイトに掲載している。彼女は、「私の写真コレクションが金融的な投資価値を生むとは全く考えていなかった。それらが圧倒的な美を私に語りかけていたから購入した。コレクションはすべてエモーショナルに構築されたものだった」またコレクションに興味ある人へのアドバイスとして、「アート写真を投資として考えてはいけない。もしこの写真が私の目の前から消えても、私はこの作品のことを思い続けることができるか?という重要な質問を常に自分に問いかけている。もし忘れられないなら、その写真は私のコレクションに加わることになる」と発言している。さらに「写真コレクションは、いま進行している社会の問題点に、私がコミットして行動を起こすのに美点を見出す助けを与えてくれていた。また私がとても深く気にしている事柄について、それらを認識して行動するための力を与えてくれた」とも語っている。

クリスティーズは2つの単独コレクション・セールを開催。“Daydreaming: Photographs from the Goldstein Collection”は、20世紀中ごろのファッションとハリウッド・グラマー、クラシック・ポートレート系作品が中心の69点のオークション。落札率は約78%、総売り上げは約161万ドル(約1.77億円)だった。最高額の落札は、リチャード・アヴェドンの代表作“Dovima with Elephants, Evening Dress by Dior, Cirque d’Hiver, Paris, 1955”。エディション50、1979年にプリントされた124.5X101.6cmの大判サイズ作品。落札予想価格35~55万ドルのところ、61.5万ドル(6765万円)で落札された。

“The Face of the Century: Photographs from a Private Collection”は、貴重なポートレート、ヌードにフォーカスし、米国と欧州の約120年の写真の歴史を網羅する90点のコレクション。マン・レイの作品が9点、ファッション系では、ヘルムート・ニュートンの代表的作品14点が含まれている。落札率は約87%、総売り上げは約181万ドル(1.99億円)だった。最高の落札予想価格だったエドワード・ウェストンの“Shells 6S, 1927”は残念ながら不落札。最高額はヘルムート・ニュートンの“Self Portrait with Wife and Models, Paris,1981/1988”と、“Torso, Ramatuelle, 1980/1988”で、ともに落札予想価格上限を超える10万ドル(1100万円)で落札されている。

Dorothea Lange, Sign of the Times–Mended Stockings, Stenographer, San Francisco, 1934 / Phillips NY

これらの単独コレクションの内容を吟味するに、20世紀のアート写真コレクターは、写真に対する純粋なパッション(情熱)で買っていた事実が伝わってくる。誰も将来に売ることなど考えていなかったのだ。単純に好きだから買うのであって、そこには投資的な視点は全く存在していなかった。現在とは違い、当時はまだ写真は他分野のアートと比べて過小評価されていた。購入作品の選択肢も豊富で、優れた作品の相場もいまよりもはるかに低かった。熱いパッションで優れたコレクション構築が可能だったと言えるだろう。このような写真を愛する真摯なコレクターたちの存在によりアメリカのアート写真市場の広がりと厚みが形成されてきたのだ。
いまコレクターの世代交代期を迎え、このような市場黎明期に構築された20世紀写真のコレクションがオークションにかけられるようになっている。多くの高額になった貴重作品は美術館などの公共コレクションに収蔵され、市場から消えていくと思われる。当然のこととして、優れたコレクションの数には限界がある。私は今回の20世紀写真セールの活況は、今後に市場構造が大きく変化していく前兆だと認識している。

Consuelo Kanga, Profile of a Young Girl from the Tennsssee Series, 1948 / Phillips NY

次回は、オークション・レビュー(2)複数委託者セールに続く。

(為替1ドル/110円)

“ROCK ICONS 2”
(鋤田正義/グイード・ハラリ/フレンズ)
ブリッツ次回展が4月12日スタート!

ブリッツ・ギャラリーの次回展は、昨年に開催して好評だった、鋤田正義とグイード・ハラリによる20世紀ロックの伝説的ミュージシャンたちのポートレート写真展の第2弾、“ROCK ICONS 2(ロック・アイコンズ 2) / SUKITA X HARARI X FRIENDS”となる。日本人の鋤田とイタリア人のハラリは、70年代から90年代までの20世紀ロック黄金期のミュージシャンを世界中で撮影し続けてきた。二人は、撮影スタイルは違うものの、お互いの仕事をリスペクトしあう友人でもある。ハラリは、熱心なロックファンが多い日本での自作紹介を長年にわたり夢見ていた。昨年の“ROCK ICONS / SUKITA X HARARI”展は、ハラリの希望に鋤田が答えることで実現した。

“ROCK ICONS 2”では、二人の日本での未発表作品を中心に紹介する。また今回は、ハラリが自身のイタリアのギャラリーでプロデュースしている写真家のフランク・ステファンコ、メリ・シル、ロバート・ウィテカー、アート・ケイン、カーロ・マサリーニの作品も紹介する。いずれも日本初公開の有名ミュージシャンの珠玉のポートレート作品となる。
展示される多くの作品は、ミュージシャンとの深い信頼関係の中から生まれたコラボレーション作品。それらは単なるスナップではなく、コレクションの対象になっているアート系ポートレート写真となる。

本展で紹介されるミュージシャンは、鋤田正義が、デヴィッド・ボウイ、マーク・ボラン、デヴィッド・シルヴィアン、イギー・ポップ、YMO (イエロー・マジック・オーケストラ)、忌野清志郎など。グイード・ハラリが、ピーター・ガブリエル、ボブ・ディラン、トム・ウェイツ、ルー・リード、ローリー・アンダーソン、パティー・スミス、ケイト・ブッシュ、ロバート・スミス(ザ・キュアー)、フランク・ザッパなど。アート・ケインは、クリーム、ボブ・ディラン、ザ・ローリングストーンズ、ザ・フー、ジム・モリソン。フランク・ステファンコは、ブルース・スプリングスティーン。メリ・シルは、ジェフ・バックリィ。ロバート・ウィテカーは、ザ・ビートルズ。カーロ・マサリーニはフレディー・マーキュリーなどとなる。
本展では、モノクロ・カラーのよる様々なサイズの約60点を展示する。会期途中に一部作品の入れ替えも行う予定。

今回もほとんどの作品が販売される。小さいシート・サイズの8X10″(約20X25cm)、エディション100の作品なら、あの鋤田正義でもまだ2万円台から購入可能なものがある。超有名作の、ボウイの阪急電車、渋谷公会堂のライブの作品でも、まだ約20万円~購入可能だ。

最近、20世紀写真のアート写真市場は動きが鈍くなっている。その中で人気が衰えないのが、ミュージシャンを含むアート系ポートレート写真だ。今回はその分野の写真作品を数多く取り揃えることができた。たぶんブリッツにおける最高枚数の作品展示だと思う。
好評だったグイード・ハラリのデザインによる写真展カタログも会場で限定数販売する。

“ROCK ICONS 2 / SUKITA X HARARI X FRIENDS”
鋤田 正義 / グイード・ハラリ / フレンズ
2019年4月12日(木)~ 7月14日(日)
1:00PM~6:00PM
休廊 月・火曜日/入場無料

鋤田正義 写真展 in 大分 2019
@アートプラザ

鋤田正義の展覧会が大分市のアートプラザで4月21日まで開催されている。

同展は、2018年に出身地福岡県直方市で行われた大規模な回顧展をベースに再構成されている。鋤田が学生だった1956年ごろに直方市周辺で撮影された、静物、ポートレート、風景、スナップ、自画像から、デヴィッド・ボウイ、マーク・ボラン、イギーポップ、YMOなどの代表的なミュージシャン関連ポートレート、広告・ファッション、ポートレート、風景のパーソナル・ワークなどの作品群がカテゴリーごとに分けられて展示。また大分展では地元湯布院などで撮影された新作のカラーとモノクロの風景写真が追加されている。

鋤田が最近になってテーマとして意識しているのは人間に不可欠な存在である「水」。東日本大震災の際お店からペットボトルの水が消えてなくなった時から気になっているとのこと。関心は幅広く、小惑星探査機“はやぶさ2”が小惑星リュウグウで、岩石に取り込まれた形で水が存在している事実を確認したニュースにも関心を持っている。
水のある風景写真では遅いシャッターで撮影して水の動きを表現しようとする場合が多い。鋤田はあえて高速シャッターで撮影し、水の一瞬の存在を顕在化しようとしている。ライブでミュージシャンを撮影するのと同じスタンスで風景/水と対峙しているのだ。
水、風景は、彼がライフワークだと意識している現在進行形のプロジェクト。今回の展示はその序章、今後も作品が増えていくだろう。

鋤田と言えば、彼が最初に撮影した1枚で、フジフィルム・フォトコレクション(日本の写真史を飾った写真家の「私の1枚」)に選出された、盆踊りの浴衣を着て笠をかぶった横向きの母親の姿を撮影した“母、1958”がよく知られている。本展では、鋤田の親戚の姪が同じ場所で、同様の格好の姿で、カラーで撮影された作品が、オリジナルと対で展示されている。

タイトルは“母 1957年/ 姪 2018年”となっている。2枚の写真は、笠をかぶっていることから顔はあごのラインしか見られない。しかし、時代は約60年離れているもののそのラインはまさに瓜二つだ。当然これは演出された写真となる。しかし、時代は経過しカメラはフィルムからデジタルへ移行し、ほとんどの事象は変化したものの、それとは一線を画して受け継がれていく血の流れのようなものの存在を提示している。オリジナル作はパーソナルワークだが、新作が追加されて、時代を写した広義のファッション写真とも解釈可能になった。

本展の隠れテーマは、実は会場の建物にある。会場のアートプラザは旧大分県立大分図書館で、設計したのは大分出身のポストモダン建築の旗手として知られる磯崎新(いそざき あらた、1931- )なのだ。

磯崎は、2019年に“建築界のノーベル賞”と紹介されることもあるプリツカー賞を受賞している。つくばセンタービルや水戸芸術館を設計したことでも知られている。同館3階は磯崎新の建築作品の模型や資料を常設展示する磯崎新建築展示室となっている。

実は、鋤田はかつて磯崎と美術雑誌で、各界の最先端の人物が集う対談に参加したことがあるとのこと。大分展開催に際して、いくつかの会場が候補に上がったが、アートプラザは磯崎新の設計だと聞いて鋤田本人が同会場を希望したそうだ。同館は1966年に大分県立大分図書館として開館。当時には日本建築学会賞を受賞した磯崎建築の代表作。1998年に改装されて複合文化施設のアートプラザとして再生されている。

本展の展示作の多くは、60年~80年代に撮影されている。鋤田作品のような時代性が反映された作品は、現代的で無機質なホワイトキューブ的な会場で展示されるとリアリティーが弱まることがある。何か写真がかしこまった様になり、時代が発していたエネルギーが薄まって感じられる。
しかし、磯崎新の会場に展示されると、作品と場所が共鳴しあい。当時の気分や雰囲気がとても強く蘇って感じられるのだ。建物内部はコンクリートの打ちっ放しで、天井には丸い窓がちりばめられ、豊富な自然光が作品を照らしている。

もし、昭和の時代に同じような鋤田正義の写真展が開催されていたとしたら、本展と同じような佇まいの展示になったと思われる。まるでタイムマシーンで昭和時代の展覧会会場に舞い戻ったようだった。展示の仮説壁面の設えや、一部のパネル貼りによる写真展示も館内の空気と見事にマッチしているのだ。
私は本展自体が、鋤田正義と磯崎新の一種のコラボレーションの大きな作品だと感じた。

かつてミュージシャンのポートレートやファッション写真は、演出された作り物であり、アートではないと言われていた。しかし、いまやニューヨーク近代美術館がアイスランド出身のミュージシャンのビョークの展覧会“Bjork”(2015)を開催する時代だ。デザインを専門とする英国ヴィクトリア&アルバート美術館は、“David Bowie is”を2013年に、デザイナーのクリスチャン・ディオールの“Christian Dior : Designer of Dreams”や“Mary Quant”の展覧会を2019年に開催している。いままでは大衆文化的な受け取り方が主流だったが、この分野の中にもアート的な要素を持つ幅広い表現が存在することが明らかになっている。
念のためだが、単なるブロマイド的なミュージシャンのスナップ写真や洋服を見せる目的のファッション写真も存在する。ここで紹介しているのは、それらとは一線を画する存在の作品であることを確認しておきたい。

私は、これらは権威の象徴である美術館側が、新たな視点から価値を見出した、いわゆる「見立て」を行ったのだと解釈している。
日本でのこの新たなアート分野の代表的写真家が鋤田正義なのだ。
彼は広告写真家だという人もいるが、広告の仕事で生計を立てながら自己表現をポップカルチャーの最前線で行っていたと解釈すべきだろう。
本大分展では、磯崎新とのコラボレーションを行うことで、その存在感を一層アート界にアピールしていると評価したい。

鋤田正義 写真展 in 大分 2019
会期:2019年3月15日~4月21日
会場:アートプラザ 2F アートホール
開館時間:10:00-19:00
チケット:一般 1000円、前売り800円

オフィシャルサイト
会場

ピエール セルネ & 春画
@シャネル・ネクサス・ホール

本展は、フランス人アーティスト、ピエール セルネの現代アート的作品と、浦上蒼穹堂・浦上満コレクションが収蔵する浮世絵の春画を同時展示する試み。

Pierre Sernet 作品の展示風景

浮世絵の大胆な構図、線描、色彩は、印象派などの西洋画家に大きな影響を与えたことで知られている。浦上満コレクションの春画は、鈴木春信、鳥居清長、北多川歌麿、葛飾北斎などによる作品。浦上氏によると、春画は特定の絵師が専門にしていたのではなく、すべての制作者が表現の一つのカテゴリーとして手掛けていたとのことだ。
また春画は日本ではポルノグラフィー的に認識される場合が多いが、最近の西洋ではその作品性が再評価されているとのこと。そのきっかけは、2013年にロンドンの大英博物館で開催された大規模な展覧会。浦上氏は、日本での巡回展を試みたものの、公共美術館での開催は実現しなかったという。最終的には、元首相細川護熙氏の細川家が運営する永青文庫で2015年に開催されている。記録破りの観客動員数がマスコミの話題になったのは覚えている人は多いのではないか。同展プレスリリースの紹介文をシャネルのリチャール コラス氏が担当したのがきっかけで、今回のピエール セルネとの同時展示企画が生まれたとのこと。英国で成功したように、日本でも春画の歴史的な芸術性を再評価しようという試みなのだ。
しかし、春画が海外でファインアートとして評価されたと単純に理解してはいけないだろう。西洋では、日本は彼らとは違う価値観を持つ国だという理解が前提にある。日本の伝統的な大衆文化の一つの形態として、浮世絵の春画も注目するというスタンスなのだ。

ピエール セルネの“Synonyms”は、様々なカップルを被写体として、スクリーンを通してモノクロームのシルエットでそのフォルムを表現した作品。ニューヨークのメトロポリタン美術館収蔵の19世紀日本の掛け軸の影のような肖像画に触発されて制作したという。セルネの単体の作品は、どちらかというとグラフィックデザイン的要素が強い大判サイズの抽象作品といえる。
作家のカタログ掲載の本人によるエッセーによると、本作はインクの染みを見せて何を想像するかを述べてもらう性格検査心理テストのロールシャッハ検査の無彩色の図版や、ウサギとアヒルのヴィトゲンシュタインの有名な「だまし絵」のように、どのように感じられるかは“見る人の心のあり様に左右される”とのことだ。つまり見る人が作品にどのような文脈を与えるかによって、それぞれの見え方が存在するということ。抽象作品だが、作品タイトルにはモデルとなった二人のファーストネームが書かれている。見る側は、それを通して彼らの、性別、文化的背景、国籍が推測可能となる。つまり、人類には様々な文化的な違いが存在するものの、男女のフォルムに還元してしまうと違いはない、というのが作家のコンセプト。私は文脈と見え方/感じ方との関係性を提示した方法論自体が、より興味深い作品テーマだと解釈している。

本展は、キュレーションを行ったシャネルのコラス氏の見立てが重要な役割を果たしている。浮世絵の春画のアート性については様々な意見があるのは当然承知の上での展示だろう。エロチシズムを黒白のフォルムを強調して表現する現代アート的写真作品と共に展示することで、ポルノグラフィー的に解釈する人たちの意見に確信犯で一石を投じようということだろう。ロンドンの大英博物館やフランスの老舗ブランドのシャネルなど、日本人が海外からの評価に弱い点を巧みについているとの意見もあるだろう。しかし、コラス氏はもっと大きな視点から展覧会を開催したのだと思う。それはアートは世の中の多様性を担保する存在だということ。日本では忖度や空気を読むことが成熟した大人だという風潮がいまだに強く残っている。またアートはお上から与えられて、鑑賞するものだと考える人が多いのが現実だ。アートか猥褻かは、最も論議を呼ぶであろう、そして意見の分かれるテーマだろう。あえてそれを提示したのは、日本人にアートの多様性を気付かせる仕掛けではないかと思う。
私は90年代に日本で巻き起こった空前のヘアヌード現象を思い出した。当時は、週刊誌をはじめ多くのメディアは、アートだと言い切ることによって、ヘアヌードが猥褻だと当局からお咎めを受けないと考えたのだ。今回、コラス氏が意図したのは、そのような次元のことではなく、アートとして提示された作品に対して、誰でも自由に自分の意見を述べることができるということ。それに対しての発言は誰の心も傷つけることはないのだ。主催者は、老若男女、多くの人が会場に来てくれて様々な意見を交わしてほしいのだ。そして、アートは決して美術館やギャラリーで展示される物理的なモノではなく、それは一種の考え方もしくは思想、さらに進んで生き方なのだと示したいのだろう。また日本に長く在住しているコラス氏による日本のアート界へのメッセージでもあると受け止めたい。

なお本展は“KYOTOGGRAPHIE 京都国際写真祭”にも巡回するという。古の都でも様々な議論が交わされることになるだろう。

ピエール セルネ & 春画
シャネル・ネクサス・ホール(銀座)
3月13日(水)~4月7日(日)
12:00~19:30、入場無料
3/28は展示替えのため休館

曖昧となるアートとデザインの境界線
Masterpieces of Design & Photography @クリスティーズ・ロンドン

いま新しい価値基準を持つ、いわゆる20~30歳代のミレニアル世代が消費の中心になりつつある。市場でのプレーヤーの変化に伴い、アート市場でも作品販売方法の見直しが求められている。

オークションハウスも、新たなコレクターの興味をひくため、様々な実験を行っている。販売方法ではデジタル・ネイティブ層を意識して、オンライン・オンリーのオークション数を増やしている。また従来のアート・ジャンルの組み替え、統合を行い、新たなカテゴリー創出にも挑戦している。これは新世代のコレクターは、様々な興味の中に多様なジャンルのアート作品があるからだ。以前のように特定分野のアートやアーティストのみを集中的に見ているのではない。そして、従来の世代は、アートはパッションで買うのが一般的だったが、最近は将来的に売却することを考慮に入れて作品選択を行う傾向が強い。つまり、好きだけではなくある程度の資産価値があるものを、多少高価でも選ぶということだ。最近の若手、新人による作品の不振は、まだ彼らにブランド価値がないからだという分析もある。
マルチジャンルの実験的なオークションは、オフシーズンに行われることが多く、クリスティーズが「Icons & Styles」、「Masterpieces of Design & Photography」、ササビーズは「Contemporary Living」、「Now!」、「Made in Britain」、ブルームズベリも「Mixed Media: 20th Century Art」などを行っている。写真、版画、家具、オブジェ、デザインなどが、業者ごとの担当者の思惑で編集されて実験的に実施されてきた。

さて2017年10月にクリスティーズ・ロンドン開催されて好調だった新たなカテゴリーMasterpieces of Design & Photographyの2回目が、再び3月6日に行われた。これはデザイン、インテリア、写真の高額評価の傑作のみを少数だけ厳選して行う、かなりターゲットを絞ったセールとなる。
新しい世代のコレクターは、デザイン、インテリア、写真などに対して同様の興味を持つ人が多いことが企画が生まれた背景にあるだろう。

前回の総売り上げは745.25万ポンド(@1ポンド/149円、約11.1億円)。特にデザイン・インテリア関連で、マーク・ニューソン(Marc Newson)のFRPを薄いアルミ板で包んだ構造の、歴史上最も高価な椅子として知られる超人気作“A Lockheed Lounge” が156.875万ポンド(@1ポンド/149円、約2.33億円)で落札され大きな話題になった。
写真は15点が出品されて11点が落札、落札率は約73.3%、£359.875万ポンド(約5.36億円)の売り上げを達成している。
ギルバート&ジョージの“Red Morning (Hell)”が84.875万ポンド(約1.26億円)、アンドレアス・グルスキーの“May Day IV”が75.875万ポンド(約1.13億円)、ロバート・メイプルソープの“Self-Portrait”が54.875万ポンド(約8176万円)、ヘルムート・ニュートンの“Charlotte Rampling”が33.275万ポンド(約4975万円)、アーヴィング・ペンの“Cottage Tulip: Sorbet, New York”が26.075万ポンド(約3885万円)で落札されている。

今回の総売り上げは、642.15万ポンド(@1ポンド/148円、約9.5億円) で、前回比約13.8%減、出品数は30点で落札率は83%だった。前回は、ちょうど景気が拡大局面にさしかかっていた時期だった。それに比べ現在の経済状況には陰りが出始めており、景気後退も意識され始めている時期だった。このような外部要因の違いを考慮するに、好調な結果だったといえるだろう。

デザインでは、ヨーリス・ラーマン(JORIS LAARMAN) によるアルミニウム製の椅子“An Important ‘Bone Chair””が落札予想価格上限を超える70.725万ポンド(約1.046億円)で落札。

JORIS LAARMAN Important bone chair

写真は14点が出品されて12点が落札、落札率は約85.7%、349.825万ポンド(約5.17億円)の売り上げを達成している。
全作品の最高額はロシア出身のエル・リシツキーの写真作品“Self-Portrait (‘The Constructor’)”で、94.725万ポンド(約1.4億円)だった。これはオークションでの同作家の最高落札額。

EL LISSITZKY, Self-Portrait (‘The Constructor’)

エドワード・ウェストンの“Shell (Nautilus)”は1927年に撮影されて1928年にプリントされた貴重なヴィンテージ・プリント。落札予想価格のほぼ下限の51.525万ポンド(約7625万円)で落札。トーマス・シュトゥルートの、“Mailander Dom (innen), Mailand”は、172.7 x 218.9cmサイズ、エディション10点の大作。落札予想価格上限の25万ポンドをはるかに超える41.925万ポンド(6204万円)で落札された。
杉本博司の人気海景シリーズからの“Yellow Sea,1992”は、エディション5点、 119 x 148.6cmサイズの大作。23.75万ポンド(約3515万円)で落札された。

Hiroshi Sugimoto, Yellow Sea,1992

ちなみに本作はギャラリー小柳で売られて、2008年の11月13日クリスティーズNYで45.3125万ドル(@1ドル/96.894円、約4390万円)で落札された作品。ちょうどリーマンショック直後の相場がピークアウトし始めた時期だったので、全所有者は当時としては底値で買えたものの、結局は約10年所有したものの利益はでなかったようだ。
ちなみに今回の落札予想価格は20~30万ポンド(@1ポンド/148円、約2960~4440万円)、前回が60~80万ドル(@1ドル/96.894円、約5813~7751万円)。当時の評価は明らかに過熱気味で、現在の相場はより現実的なレベルなのだといえるだろう。ちなみに相場ピーク時の、2008年6月30日のクリスティーズ・ロンドンでは、杉本の“Black Sea, Ozuluce, 1991”、エディション5点、152x182cmサイズの大作が、64.605万ポンド((@1ポンド/205円、約1.32億円)で落札されている。過去のデータを調べると、為替レートが大きく変動している事実に改めて驚かされる。
ちなみに2018年のニューヨークの大手オークションハウスの売上高は約3183万ドル(@1ドル・110円、約35億円)、ピークだった2008年の26%にとどまっている。

2月22日には、スワン・ギャラリーズ・オークション・ニューヨークで、高額・少数の真逆となる低額・多数の“Photographs: Art & Visual Culture”が行われている。こちらの総売り上げは約135万ドル(約1.48億円)、低中価格帯中心の出品323点、落札率は70.5%だった。大物を狙うか、小物を多数さばいていくかの考え方の違いが興味深い。

これからは大手と中小のオークションハウスの棲み分けが進んでいるということだろう。大手は、低価格帯についてはオンライン・オンリーのオークションにシフトしていくことが予想される。従来とは違うテイストや行動をとる新しい世代の人が市場の中心になっていくに従い、オークションハウス、プライマリーのディーラーは、生き 残りのために数々の試行錯誤を繰り返すことになるだろう。

ヒューマン・スプリング
志賀理江子
@東京都写真美術館

志賀理江子(1980-)は、愛知県出身の宮城県在住の写真家。ロンドン芸術大学チェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・カレッジ・デザインを卒業。2008年に第33回木村伊兵衛写真賞を受賞している。
主催者によると、本展“ヒューマン・スプリング”の趣旨は、“現代を生きる私たちの心の奥に潜む衝動や本能に焦点を当て、日本各地のさまざまな年代、職業の人々とともに協働し制作した新作を、等身大を超えるスケールの写真インスタレーションで構成します”と紹介されている。
カタログ掲載の“人間の春”という作家本人のエッセーには、“毎年春、さくらが芽吹く数日前に、全く別人になる人がいた。頬は赤く紅葉し、夜もねむらずあたりを歩み続け、目が合う誰しもに話しかけ、よく笑い、高鳴る旨の音がこちらにもきこえてくるようだった”そして、“春になると全くの別人になる人は、まさに、その(「死」を通じた時空)裂け目からやってきた精霊のようだった。(中略)そして、その症状には「躁」という病名がついた”と記されている。志賀は、心のバランスを崩すと、生を疑うようになり、死を呼び寄せる、という発言もしていた。また精神科医の木村敏が、著書の“臨床哲学講義”(創元社、2012年)で、内因性の躁の時制について“永遠の現在”という言葉を使っているとし、それがまるで写真のようだとも語っている。また“躁はすべて鬱だし鬱はすべて躁である、と言える”という同氏の見解も紹介している。

会場内で奥から入口方面を見ると、直方体の巨大な180 X 270 cmの面に、この「春になると別人になると思われる人の」ポートレートが“人間の春・永遠の現在”と題されて繰り返し並んで展示されている。カタログにも、ほとんどすべての見開きページの左側に、この人の同じポートレートを収録。文字ページの背景にも使用されていて、裏表紙も含めて約80点が掲載されている。

都写真美術館 志賀理江子“ヒューマン・スプリング”展

志賀はカタログのエッセーで、人間が社会生活の中で多大な精神的なストレスをかかえ、“心因性かつ単極の鬱病を大量に発生させている”と記している。この辺りに本作の基本構想が生まれた背景があるようだ。しかし、これは社会生活を送っていくうちに誰しもが認識することであり、特に作品テーマとして声高に提示するような新しい視点でもないというツッコミがはいるかもしれない。
しかし、いままでに多くの世代の人が意識してきた問題意識を、今の30代後半の人も共有している点に注目したい。もはや、限られた世代や時代の問題ではなく、現代日本社会における根深い状況になっていると解釈したい。

本作で、志賀は精神的に病んでいく根本的な原因は人間と自然とのバランスが崩れたことにあると認識している。都会で人工的な社会生活を送っていると自然など意識しないだろう。しかし、長い冬からの春が訪れという自然の大きな変化を体で受け取り、全くの別人のなる人との出会いを通して、彼女はその事実に否応なしに気付かされた。また本作の作品制作の背中を押したのは、東日本大震災の体験だろう。それは普段私たちが忘れている自然の中の小さな存在を意識するきっかけになった。考え抜いた末ではなく、天変地異との遭遇から直感的に生まれてきた作品制作の衝動だったと思う。

本展は、日本古来の価値基準をもう一度見直してはどうかという提案でもある。それは、自然美に一種の神を見出し、恐れを抱きながら共に生きるというもの。いま世界の多くの人は、環境破壊や気候変動に直面し、西洋の自然を利用して経済成長するという、長らく続いた近代主義の考え方に疑問符を持つようになっている。明治以降の日本も例外ではない。
様々な考え方が議論されているが、自然に神を見出しだすような、かつての日本の美意識や地球共同体的な考えが注目されるようになっている。実際のところ、このような考えを安易にテーマとした作品は数多く存在している。21世紀の日本の山河に、古の日本の優美の美意識を見つけ出した、というような退屈な風景写真だ。残念ながら、それらの多くは、表層だけをとらえたテーマ性が後付けされた、リアリティーに欠けた写真だ。
一方で、志賀は同じ深遠なテーマを、人間の中に眠る身体性を蘇らせて、一種の祭りのような身体性を持つ写真撮影のパフォーマンスをチームで行って表現している。その延長線上に、今回の巨大写真を張り合わせた直方体のオブジェを会場全体に並べるインスタレーションが生まれたのだろう。しかし、彼女は特に古き良き時代の日本の考え方に戻れと言っているのではないと思う。そんなことは望むのはナイーブで非現実的だと当然理解しているはずだ。しかし、いま確実に進行している危うい社会状況を、ヴィジュアルで可視化させて、来場者に意識するきっかけを提示したいのだろう。

いくつかの展示作品は、米国人写真家ライアン・マッキンレーのヴィジュアル・スタイルと似ていると感じた。志賀は自然と人間との関係性の再構築の可能性に取りつかれている。アメリカ人も病的に自由であることに取りつかれているともいえるだろう。マッキンレーは不自由を強いられる現代生活の中で、かつての自由でルールがないような世界を追い求めて創作している。二人ともに今はない、かつてあったファンタジーの世界を、時間軸は違うものの作品で構築しているのだ。またチームで創作する点や演出する点も類似性を感じさせられる。
志賀は1980年生まれ、マッギンレーは1977年生まれの同年代。国は違えども、今を考えるヒントを、過去に求める共通のメンタリティーを持っているのだろう。

都写真美術館 志賀理江子“ヒューマン・スプリング”展

多くの来場者は、会場に足を踏み入れると、まず展示風景に困惑するだろう。それは全く知らない土地で、突然その地の伝統的な祭りに出くわしたときのような戸惑いと同じだ。会場内で彼らが感じる違和感、もしくはノイズも作家が意図したもう一つのテーマなのだろう。
現代社会では、私たちは自分の興味ある情報にしか触れなくなっている。社会システムから、個人が好む価値だけを与えられて、何も考えないで生かされる世界が現実化している。そこで生きる人は、違和感を無意識的に避けるようになっている。自分の狭い価値基準が全体の世界だと信じて、ぐるぐる回っているような状況だ。違和感は、自らの思い込みに気付かせてくれ、意識的に考えはじめるきっかけを提供してくれる。私は創作には違和感を避けるのではなく、意識的な対峙が必要だと考えている。本展では、上記のような、いまの社会状況をインスタレーションで表現しようとしているとも解釈可能だろう。
会場内に並べられた20個の巨大な直方体のオブジェは、私たちの表面的な社会のように整然ときちんとしているように見える。しかし、個別のヴィジュアルに目を移すと、そこには普通ではない「春になると別人になると思われる人」のようなシーンが繰り返し登場する。そして、よく表面を見ると、タイプCプリントにはたるみが出て、決してフラットではないことに気付く。一見平穏に見える世界に潜んでいるノイズがそこに表現されている。
会場内には、オブジェのスケルトンの、写真が貼られていない木材の枠組みが1点だけ置かれている。(上の画像の左奥) 製作途中で放棄されたかのような枠組みは、全体の展示物の中でのノイズであり、会場内に潜む違和感に気付く割れ目のような役割を担っている。そして、その違和感は、私たちが自然とのバランスを崩していることへの気付きにつながってくるのだ。

来場者は、違和感を拒否するのではなく、ぜひそれに対峙して味わってみてほしい。世界を理解する新しい視点が自分の中から呼び起こされるきっかけになるかもしれない。

志賀理江子 ヒューマン・スプリング
東京都写真美術館(恵比寿)

有名アーティストのフォトブックを真似る
共感する人の世界観での自己表現

今春にオープンする予定のブリッツ・アネックス。いま膨大な冊数の写真集の整理整頓に悪戦苦闘している。ほとんどが絶版本で、棚に並べるかどうかの選択規準は、あえて単純に古書市場での評価にした。ただし、専門分野であるアート系のファッション、ポートレート写真では、独自の規準で主観的にセレクションしている。
作業を進めていくと、膨大な数の自費出版本の存在を意識せざる得なくなった。その中には、様々な種類の写真を掲載した本が混在しているのだ。膨大な冊数に直面し途方に暮れながら、気付いた点をまとめてみた。写真集の制作を考えている人、コレクションしている人は参考にしてほしい。

まずデジタル時代になって、とてつもなく印刷クオリティーが悪い写真集があることにも気づいた。アナログ時代のフィルムを、的確をスキャニングして高レベルの印刷を行うのは極めて難しいことは知られている。しかし、デジタル・カメラで撮影されたと思われる写真でも同様の状況が見られるのだ。そこには、プリンティング・ディレクターが関わっているはずなのだが、どうも的確に色味がコントロールされていないと思われないものが散見される。アナログのフィルム製版の時代にはそのような酷いものはあまり見た記憶がない。
デジタル時代は、アナログ時代よりはるかに低価格で写真集が制作できる。以前は存在しなかった劣悪なものまでが制作されたのかもしれない。印刷はオリジナル作品と比べてその良し悪しが判断されるはずだ。しかし、デジタル時代のオリジナル・プリント制作には、写真家が明確な基準を持つことが必要だ。それを持たない人が多いのではないかとも思う。それでは、印刷で目指すべき規準も存在しない。個々人の感覚的な判断によっているのではないだろうか。
逆に、どう見てもオリジナル作品よりもクオリティーが高いと感じる印刷もある。本だけでなく写真展の案内状にもみられる。これはプリンティング・ディレクターが撮影した写真家より優秀ということなのだろうか? デジタル時代の作品クオリティーはどのように担保していくのか。大きな問題だと改めて気づかされた。

またデザインを重視した写真集も数多くみられる。これらの中心はデザイナー、もしくはデザイナー的な意識を強く持つ写真家の場合もある。抽象的な写真を、グラフィック・デザインや装丁を重視して編集制作された本のことだ。綺麗なパッケージのように、デザインのサンプルのような存在。外観やデザインがすべてで、中身の写真がそのための素材になっている。これは写真を見せるフォトブックではなく、別の目的を持った出版物になってしまう。

何度も解説しているように、写真集の中には撮影者が読者に伝えたい何らかの時代性を持つメッセージを伝えるために制作されたものがある。いわゆる、フォトブックと呼ばれるもので、海外では写真が収録されただけのフォト・イラストレイテッド・ブックと区別されている。またアート写真の一つの表現方法として認知されている。フォトブックでは、伝えたい内容を明確化し、それを写真で伝えるために、編集者、デザイナーが写真家と共に様々な試行錯誤を行う。彼らも単に編集やデザインを行うのではなく、フォトブック専門の知識、経験、ノウハウを持っていることが必要となる。編集者は、内容を的確に伝えるテキストも用意しなければならない。日本では、このようなフォトブックへの理解度が非常に低い。ベテラン写真家の中にも、写真が良いか悪いかがすべてで、編集者やデザイナーは必要ないと発言する人も少なくない。写真は伝統工芸の職人技のカテゴリーで理解されており、アート表現だと考えられていないのだ。
残念ながら、このようなフォトブックのプローチで制作された写真集は私どもの手元にはなかった。もしかしたら、的確に写真家のメッセージが伝わってこなかったのかもしれない。

否定的なことばかり書いてきたが、最後に希望が持てる事象を発見したことも記しておこう。私が可能性を感じたのは、誰か好きなアーティストがいて、その人の世界観に共感してそれを自分の視点で表現する人だ。本来は自分で社会に横たわる問題点を見つけ出し提示しなければならない。しかし、彼らは既にそれを行っているアーティストの世界観を自分なりに解釈して、自らの写真集として提示しているのだ。ただし、これは有名写真家のヴィジュアルの表層を感覚的に真似することではない。この点は重要なので勘違いしないでほしい。それでは前記の職人技を持った写真家の技術の模倣に陥ってしまう。またこれは商業写真で時に問題となるパクリではない。敬意を表するアーティストからの影響を認め、それに対するオマージュ的作品を確信犯で制作する人である。
初期のロバ―ト・フランク、ロバート・アダムス、テリ・ワイフェンバック、現代アートのベッヒャー夫妻などの世界観を意識していると感じる作品などがある。私は、このようなアプローチの創作の先に、自分独自の視点を持ったフォトブックが生まれる可能性があると期待している。特に若手や新人は、自分の尊敬できるアーティストを探し当て、詳細に研究を行い、それを真似るところから表現を開始するばよいと考える。いきなり、誰も見たことがないような独創的な表現などできるはずない。

このように様々な種類の写真を収録した、多様な形式の写真集が存在する。しかし素材はすべて写真と紙。一般の人はそれらの違いが非常にわかり難いだろう。違いを見分けるには、繰り返し述べている“見立て”の技術が必要だと考えている。別の言い方をすると、アーティストの視点を、技術や知識を持つ人が分かりやすく提示すること。最近、私は“アート・コンセプト・エンジニアリング”と呼んでいる。フォトブックに興味ある人は、ぜひ”見立て”を学んでほしい。
今後に開催する、“ファインアートフォトグラファー講座”などでもこの点は重点的に解説していく予定だ。

ザ・プリンシズ・トラスト・コンサートの集合写真
テリー・オニールが紡ぎだす80年代後半の英国

1月に掲載したテリー・オニール写真展の見どころで、テリー・オニールがライブ・エイドの集合写真を撮影していたと紹介した。彼の写真集“Terry O’Neill’s Rock ‘n’ Roll Album” (2014年、ACC Editions刊)には、ミュージシャン17名のカラー写真を収録。椅子に座ったティナ・タナ―を中心に、ポール・マッカトニー、エルトン・ジョン、ロッド・スチュアート、エリック・クラプトン、フィル・コリンズなどが写っている。記載されているタイトルは“Musicians involved in Live Aid, 1985”となっている。2枚目は、“Terry O’Neill: The A-z of Fame”(2013年、ACC Editions刊)に“Princes Diana and Live Aid”というタイトルでモノクロの集合写真が収録されている。

最近、非常に当時の事情に詳しい専門家のお客様からの指摘で、それらの写真は同じチャリティー・コンサートではあるものの、ザ・プリンシズ・トラストの支援イベントであることが判明した。写真集の記載内容は間違いだった。これは英国のチャールス皇太子が1976年に失業者など弱い立場の若者世代の支援目的のために設立した財団。発足したのは、ちょうど経済が悪化して失業者が増加し、いわゆる英国病に苦しんでいた時代だ。写真集のキャプションには、“ライブエイド”との記載があり、参加者がライブエイドとかなり重なることから信じてしまった。間違った情報を提供したことを心よりお詫びしたい。

正確には、カラーの方が1986年6月20日、ロンドンのウェンブリー・アリーナで行われた、ザ・プリンシズ・トラスト10周年記念コンサートでの集合写真。その模様はLP、CD化されている。ティナ・ターナー、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、ロッド・スチュアート、エリック・クラプトン、ミッジ・ユーロ、ハワード・ジョーンズ、レベル42、ポール・ヤングなどが参加している。

モノクロの方は1988年6月5~6日に同じくザ・プリンシズ・トラストのもとに集結したミュージシャンによるロンドン・ロイヤル・アルバート・ホールでのチャリティー・コンサートでの集合写真となる。参加者は、ビージーズ、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニー、レオナード・コーエン、ジョー・コッカー、マーク・ノップラー、ピーター・ガブリエル、フィル・コリンズ、トゥパウ、エリック・クラプトン、ミッジ・ユーロ、ハワード・ジョーンズ、リック・アストリーなど。ネットを調べたら、こちらは映像がレイザーディスクで発売されていた。

同じ記事で、1985年の「ライヴ・エイド」に行ったものの、クイーンやデヴィッド・ボウイを撮った写真が見つからなかったと書いた。しかし、彼らを撮っていないわけがないので、過去の写真を今一度調べてみた。
やはり、以前紹介したのと別のフィルムで撮影していたことを発見した。登場リストによるとクイーンは6時40分、デヴィッド・ボウイは7時20分の出演予定となっている。夏場のロンドンは日没がかなり遅い。しかし、6時を過ぎるとさすがに日が陰り、ステージは照明がメインのライティングになった。当時のカメラはもちろんアナログで、それも感度の低いデイライト用のコダックのカラー・フィルムを使用して望遠レンズでの撮影だった。クィーンの時はまだ回りが明るかったので、フレディー・マーキュリーの姿は確認できる。

ピアノを弾いている写真は、たぶんボヘミアン・ラプソディーの時だと思う。

しかし、その後のボウイはもうかなり暗いなかでの動きのあるパフォーマンスだった。 存在は確認できるがかなりブレ・ボケになっている。

その他、スティング、ポール・ヤングの姿も撮影されていた。

80年代初め、クラッシュのブリクストンでのコンサートに行った。当時の全員立ち見の会場内には、社会への不満の鬱積とそれを音楽で発散しようという人たちのエネルギーが充満していた。
しかし80年代半ば以降のチャリティーコンサート、例えば私の行ったライブエイドなどでの英国人の熱狂は、パンクロックのコンサートとは全く違っていた。ちょうど当時の英国は、北海油田からの原油産出による財政赤字の削減効果が出始め、英国病克服を目指すサッチャー首相による新自由主義的な各種政策の効果が出始めていた時期だった。経済状況が急激に改善したわけではなかったが、人々が未来に対して希望を持ち始めていた。実際に90年代以降の英国は、長期にわたり経済成長を継続していくことになる。経済状況の推移を聞いてもあまりピンとこないが、時代ごとのロック・ポップ音楽の状況に置き換えてみると実感がわいてくる。
そしてテリー・オニールの50年以上に渡る写真作品も、そのような音楽とともにあった、各時代の気分や雰囲気が反映されているのだ。撮影された時代を生きた人ならば、写真から音楽が蘇り、当時の記憶が思い出されるのではないか。私はそれこそが、彼の写真集人気が非常に高く、比較的高額なのに売れている理由ではなかと思う。

テリー・オニール 写真展
“Terry O’Neill: Rare and Unseen”
(テリー・オニール : レア・アンド・アンシーン)
3月24日(日)までブリッツで開催中
1:00PM~6:00PM/ 休廊 月・火曜日 / 入場無料


2018年の人気フォトブック
お値打ちの写真集を探せ!

アート・フォト・サイトは、ほぼ毎週ごとにおすすめのフォトブックを紹介している。毎年、それを通してのネット売り上げなどをベースに、国内外のネットショップの売れ筋ランキング、ギャラリー店頭での動向などを参考にして、独自のフォトブック人気ランキングを発表している。
最近は大手通販サイト経由ではなく、独自のネットワークやフォトブック専門店のみで販売する出版社、ギャラリー、美術館、写真家も多くなっている。また発行部数が少ない人気写真家の限定フォトブックなどは、事前に予約を募り、市場に出回る前に完売する場合もある。

いまや極めて複雑化したフォトブック流通を完ぺきに網羅するランキングの集計は非常に困難といえるだろう。それぞれの専門店、オンライン・ブックショップごとの特色が反映された人気ランキングが存在するのだと考えている。

アート・フォト・サイトの”洋書ベスト10″は、大手通販サイトで購入可能な本の人気度が強めに反映されている。ランキングはできる限りの客観性を心掛けているが、あくまでもコレクションのための参考資料程度に考えてほしい。

2018年の人気1位はマイケル・ケンナの“Michael Kenna: Holga”。

ケンナは、静謐なモノクロームの風景写真で知られる英国人写真家。2018年~2019年にかけて東京都写真美術館の地下展示室で回顧展「A 45 Year Odyssey 1973-2018」を開催するなど、日本のアマチュア写真家に絶大な人気のある写真家だ。ちなみに同展のメイン・ヴィジュアルの“White Bird Flying,Paris, France,2007”は、この本のカヴァーにも採用されている。彼の代表作は、主にハッセルブラッド・カメラと三脚を利用して、長時間露光で計画的に制作される。しかし本書収録作は、すべてプラスチック製ボディのホルガ・カメラで撮影されている。安価なホルガ・カメラで手持ち撮影されたケンナの写真に、多くの人が興味を持ったことがランキングに反映されたのだろう。

2位は、ロバート・フランクの“The Lines of My Hand”だった。

本書は、1972年に発表された“The Americans”に次ぐフランク2冊目のフォトブック。いままでに3種類が刊行されている。最も有名なのが、編集者の元村和彦(1933-2014)が手掛け、杉浦康平デザインによるスリップケース入り豪華本。“私の手の詩―ロバート・フランク写真集” (1972年 邑元舎刊)として限定1000部、当時の価格7500円で刊行された。同時に写真家ラルフ・ギブソンが自身の出版社ラストラム・プレスから米国版“The Lines of My Hand”(Lustrum Press1972年刊)を出版。こちらはペーパー版でデザインや装丁が全く違っていた。1989年には、半透明のダストジャケット付ハードカヴァー仕様で、スイスのPARKETT/DER ALLTAGから“Robert Frank: The Lines of My Hand” として拡大判が再版されている。
本書は美しい本づくりに定評のあるドイツのシュタイデル社による待望の再版。フランクの協力のもと、1972年刊のLustrum Press社による米国版の最新版を目指して刊行された。残念ながら同じくシュタイデル社から再版された“The Americans”ほど人気は盛り上がらなかった。
本書は、フランクの自叙伝的、告白的なフォト本制作のアプローチを確立させたフォトブック。この点についての読者の好みが別れたのだと思われる。

3位はラルフ・ギブソンの“The Black Trilogy”。

ラルフ・ギブソン(1939-)は、シュールリアリズム的なヴィジョンを持つファインアート系写真家。1970年代に、自らの出版社から“Somnambulist(夢遊病者)”(1970年刊)、“Deja-Vu”(1973年刊)、“Days at Sea”(1974年刊)を出版。これら3部作は“Black Trilogy”と呼ばれ、パーソナル・ドキュメンタリーを優れた抽象作品にした、と高く評価されている。
本書は3冊が1冊にまとめられ、写真家・キュレーターのジル・モラによる新エッセーが収録された、幻のフォトブックの待望の再版。写真史的、資料的にも重要性が高い作品なので、比較的高価だったが正当に価値が評価されたのだろう。

2018年の、ドル円為替の年間平均TTSは1ドル/111.43円。ちなみに2017年は113.19で昨年は若干円高だった。しかし洋書販売価格への影響はほとんどなかったといえるだろう。ここ数年の傾向を振り返ると、洋書は円安傾向が続いたことによる販売価格上昇とヒット作の不在から、売上高・販売冊数の減少傾向が続いていた。人気が集中するのは、比較的低価格のいわゆるお値打ちがあるヴァリュー・フォー・マネーの定番か有名写真家の写真集という傾向が続いていた。
またフォトブックは、アート写真コレクションでは低価格帯作品に分類される。その主要な購入者である中間層の実質所得の伸び悩みも市場に影響を与えていると考えている。
つまり最近は、流行的要素やフィーリングで興味を持つ人が減少し、趣味としてアート系写真集を長年にわたりコレクションしたり、良い写真を撮りたいアマチュア写真家などの、マニアックな従来からのコアの人が購入者の中心になっていると思われる。もしかしたら今の状況がニューノーマルなのではないかと危惧している。

2018年は目立ったヒット作がなかったことから、売上高・販売冊数ともに3年連続して減少した。

 2018年フォトブック人気ランキング

1.Michael Kenna: Holga マイケル・ケンナ、Prestel 2018年
2.The Lines of My Hand ロバート・フランク、 Steidl 2018年
3.The Black Trilogy ラルフ・ギブソン、Univ of Texas Press 2018
4.Stephen Shore スティーブン・ショア―、 MOMA 2017年
5.Street Photographer ヴィヴィアン・マイヤー、powerHouse Books 2011年
6.It’s Beautiful Here, Isn’t It… ルイジ・ギッリ、Aperture 2018年
7.Women ソール・ライター(和書)、スペースシャワーネットワーク 2018年
8.The Street Philosophy of Garry Winogrand ゲイリー・ウィノグランド、Univ of Texas Press 2018年
9.Centers of Gravity テリ・ワイフェンバック、onestar press 2017年
10. Nothing Personal リチャード・アヴェドン、Taschen America Llc 2017年

アート系ファッション写真のフォトブック・ガイド(連載) (8)
アート性が再評価される写真家 “James Moore: Photographs 1962-2006”

James Moore: Photographs 1962-2006 “The Headstart Dress”,Harper’s Bazaar,August 1967

前回、マーティン・ハリソン著の”Appearances : Fashion Photography Since 1945″(1991年刊)を紹介した。
私は同書を読み返すたびに、欧米のアート専門家の、歴史を自らの手で修正し、新たに作り上げようとする情熱に感心させられる。それは、まだファッション写真がアート表現ではないと考えられていた90年代以前に活躍した写真家の再発見と作品の再評価を行い、歴史に新たなページを書き加える仕事のことになる。ここでの評価基準は、単に編集者やクライエントの言われるままにファッションつまり洋服を撮影してきた人か、厳しい仕事の要求の中で、自己表現の可能性を追求してきたかによる。この点は、写真を見ただけでは判断が難しい場合が多い。写真史家や編集者は、一緒に仕事を行った多くの関係者に広範囲のインタビューなどの調査を行い、その写真家の持っていたアート志向の全体像を描き出そうとするのだ。

2017年に中国系2世のアメリカ人写真家ジェームス・ムーア(James Moore、1936-2006)の初写真集が、死後10年たって刊行された。これこそは、上記の写真史で忘れ去られていた才能の発掘を提示する仕事といえるだろう。

James Moore: Photographs 1962-2006

彼は、映画的、またシュールな構図を持つファッション写真で60年代の時代の雰囲気をヴィジュアル作りで担ってきた写真家。私が彼の写真を初めて見たのは、上記の”Appearances”でのこと。そこでは、マーティン・ハリソンにより6ページにわたり7点の作品が紹介されている。1991年から約四半世紀が経過して、やっとムーアの本が刊行されたことになる。出版までに時間かかったのは、自己アピールする人が多い中で、彼の自己PR下手が理由だと書かれている。またキャリア後期は病気がちで、2006年に比較的若くなくなったことも影響しているだろう。編集に携わったのは子息のニコラス・ムーア、これは2007年に同じくDamiani Editoreから、息子のテリー・リチャードソン編集で刊行されたボブ・リチャードソン(Bob Richardson, 1928-2005)の写真集と同じ構図となる。同様にギイ・ブルダン、ブライアン・ダフィーなども、死後に息子の尽力で本格的写真集が初めて制作されている。

やや本筋から離れるが、私が最近興味を持っているのは、死後やキャリア後期に過去の仕事が再評価される人と、全く忘れ去られる人の違いについてだ。
上記の”Appearances”には、マーティン・ハリソンが数多くの当時未評価だったファッション写真家を紹介している。その後、作家性の再評価が行われ写真集刊行、展覧会開催が行われる人がいる一方で、全く名前を聞かない人も数多い。
それはどうも単純に仕事が歴史的に優れていたかどうかではないと感じている。ジェームス・ムーアの本の解説によると、彼は、ジミーと愛称で皆から呼ばれ、永遠の少年で、幅広い人たちに愛されていたとのことだ。写真集出版には資金が必要だ。写真集が売れない中で、いま出版社が全額資金を出すことなど、よほどの人気作家でない限りないのだ。本書版元のDamiani Editoreも例外ではない。ある程度人気のある写真家の本でも、実は高額なプリント付きの限定本を出して、出版コストを回収している。本だけの売り上げでコストを回収するのは、同時に大規模な美術館展などがない限り非常に難しいのだ。
現在の写真界では、金額の違いはあるが、出版には作家本人かそれ以外の誰かが資金を拠出する必要があるのだ。本人以外が資金を出す場合、作品が素晴らしいことはもちろん、その人が皆から愛されていて、生きていた証を皆で残そうという強い思いが結集するのが前提となる。
死後に出版が相次いでいるソ―ル・ライターや、今回のジェームス・ムーアは、そのような人心を集める邪念がない人だったのだろう。実際は彼らのような人は少なく、評価されないことから不機嫌で怒りっぽく、すぐに感情をぶつけてくる写真家が多いのだ。愛される人たちは、評価されることを目指して創作してこなかったともいえるだろう。不機嫌な人の特徴は、自分のやりたいことを追求するのがアート表現だと盲信していること。思い通りにいかないことで、怒りっぽくなるのかもしれない。
不機嫌な人との関りは非常にストレスフルなので、誰も資金を拠出しないし、深く関わろうとはしない。まして手間暇がかかる本造りの仕事を一緒に行うことはないだろう。結局、自分が全資金を出さない限り、過去の仕事が写真集にまとめられることはなく、誰もその人について語らないので死後には存在が忘れ去られてしまう。
晩年のウォーカー・エバンスは機嫌が悪いことが多かったそうだが、彼ぐらいの実力レベルなら態度は関係ないだろう。ヴィヴィアン・マイヤーも気難しかったといわれるが、彼女は自分の写真を社会から評価してもらおうとは考えていなかった。死後に作品がアート関係者の目に留まり、逆に存在が伝説化され注目されるようになる。アマチュアでも彼女くらいの才能があると、全くの第3者が投資価値を見出してくれる。もし存命時に、彼女が評価を求めていたら違う展開になっていたかもしれない。

さてジェームス・ムーアだが、彼は同じファッション写真家のHiroと同様に、伝説のアートディレクターと言われるアレクセイ・ブロドヴィッチに学び、リチャード・アヴェドンのアシスタントを務めている。ブロドヴィッチに最初に写真を見せたとき、“うまく撮られた良い写真だが、そのアイデアのオリジナル写真家はもっとうまい作品を撮影している”と厳しく指摘されたという。彼は、その言葉により自らの視点構築の重要性に気付いたと語っている。
ムーアもHiroと同じく静物の写真撮影からファッション写真家のキャリアを開始している。彼は、1960年に自身のスタジオを開設し、1962年にブロドヴィッチの次にハ―パース・バザー誌のアートディレクターとなったマーヴィン・イスラエル(Marvin Israel)に初の仕事を依頼されている。それは“The Fair Foot”という1962年5月号に掲載される特集のアサインメントだった。写真は、彼がモントークで拾ってきた大きな石の塊の上に女性の素足が乗ったもの。ムーアは、砂浜を素足で歩くのが気持ちよくて好きだったので、このアイデアが浮かんだという。今では彼の代表作の1枚として知られている。

James Moore: Photographs 1962-2006 “Open Season: Resort Sandles” Harper’s Bazaar, December 1962

同年12月号には“Resort Sandals”というサンダルをはいた3名の女性の足元と、手先やボディーのシルエットによる抽象的な構図の作品も製作。“アイデアを出さないといけない。しかし結論を考えすぎるとそれを生み出すことはできない”ムーアは、ブロドヴィッチの言っていた、“あなたは空白の白いページを持っている。あなたは何でもやりたいことができる”を思い出したとハリソンに語っている。

また彼は、私の写真には構造(structure)と構成(architecture)がある、とも語っている。優れた静物専門だった写真家がその視点を持ってファッションを撮影した背景が垣間見える。
彼のキャリアの黄金期は、60年代におけるハ―パース・バザー誌米国版での仕事だった。70年代になると商業主義の台頭により、雑誌の経営方針が大きく変化する。編集者は写真家に自由裁量を与えなくなるのだ。編集方法に失望して欧州に渡る写真家も多かったが、ムーアもファッション写真の未来に失望して、TVのコマーシャル・フィルム制作に仕事の軸足を移すことになる。

本書は回顧写真集で、ムーアのファッション写真の資料的な役割を意識して編集されている。写真配列は厳密ではないがほぼ年代順になっている。一部には、当時の雑誌の複写が収録されていて、ファッション誌での写真の取り扱い方を知ることができる。彼が手掛けたファッション誌、ハ―パース・バザーの米国版、イタリア版、フランス版、VIVIなどの表紙が再現され収録。今までに写真集がなかったので、まず1冊目としてこのような写真家の全仕事をレビューする叩き台のような本が必要だろう。

133ページの見開きには、プライベート作品と思われる“Guggenheim Museum, November 1959”という美術館の内部の4フロアの人々の散らばりを撮影した写真も収録されている。モノクロによるアレブレのヴィジュアルはブロドヴィッチの“Ballet”の影響を感じさせる。また211ページにも、プライベート作品と思われる“Cardbord corner, 1961”という静物の抽象作品が収録されている。

ファッション写真でもページ139-131に、モデルと風景など複数のイメージをコラージュした1966年のハーパース・バザー用作品がある。

James Moore: Photographs 1962-2006

間違いなくファッション写真の先に自由なアート表現の可能性を探求した痕跡だと思う。将来的に、さらなるプライベート作品が発見され、それらとファッション写真との関連性の研究が進めことを期待したい。

さて日本でも70年代以降は経済成長により広告写真がアート写真を凌駕した。多くの写真家は豊富な予算を持つ広告写真の先に自由な表現があると信じた。しかし、バブル崩壊でそのような夢は無残にも破れてしまった。今や日本では、欧米人が好む写真がアート写真なのだと考えられ、評価されている。好況期にそのような人よりも注目され、活躍した写真家は写真史の評価軸から完全に抜け落ちている。日本では欧米のようなアートとして認識されている、ファッションやポートレート系写真の評価軸が存在しないのだ。しかし、日本にも欧米のようにアート性を持ち、時代性が反映された写真での自己表現に挑戦した人がいたはずだ。そのような人を見つけ出して、再評価することこそが私が夢としている仕事だ。

さて本書は、刊行時は75ドルという1万円近い高価本だった。しかし、いまでは40-50ドル台で購入可能になっている。この種類の写真集は新刊後、いったん価格が下落する。しかし、売り切れるになると価格が上昇する場合が多い。それは、ムーアの評価が今後さらに高まるかどうかにかかっているのは言うまでもない。ファッション写真に興味のある人は、とりあえず、底値と思われるいまのうちにキープしておいた方が良いだろう。

“James Moore: Photographs 1962-2006”
ジェームス・ムーア
Damiani Editore (2017/4/25)
ハードカバー: 278ページ、約250点の図版を収録
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